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星空の契約書

いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。

昨日(1月3日)に投稿したエピソードについてご報告いたします。

現在31、32、33話になっているエピソードのうち、32話の「命を育むスープ」が抜けた形で投稿してしまっていました。

お手数ですが、32話をご覧になっていない読者様はそちらをご一読の上、33話そして、この34話をご覧いただければと思います。

よろしくお願いいたします。

本日(1月4日)完結予定です。最後までお楽しみください。

 迎賓館での晩餐会が終わったのは、深夜を回った頃だった。  


 嵐のような一夜が過ぎ去り、領都バルトは静寂を取り戻していた。


 石造りの重厚な門を出ると、夜風が頬を撫でた。  


 ほてり立った肌に、その冷たさが心地よい。


「……終わったな」


「うん。……終わったね」


 ハルとアレクは、並んで夜道を歩いていた。  


 背後では、上機嫌に酔っ払ったバルト伯爵とグルマン代官が、従者たちに支えられながら馬車に乗り込むところだった。


「やったぞ!」


「見たか、あのバルガスの顔を!」


 という笑い声が遠ざかっていく。


 二人きりになった。


 手も繋いでいない。


 言葉も少ない。


 けれど、二人の間に流れる空気は、これまでの4年間とは明らかに違っていた。


 それは、死線を共に潜り抜けた「戦友」だけが共有できる安堵感であり、そしてそれ以上の――名前のつけがたい甘やかな熱だった。


「送っていくよ。宿まで」  


 アレクが言った。


「……ううん。少し、歩きたい気分」


 ハルが夜空を見上げる。


「頭が冴えてて、眠れそうにないから」


「奇遇だな。俺もだ」  


 アレクは苦笑し、少し考えた後で指を差した。


「なら、あそこに行こう。『星見の丘』だ。……今の俺たちに相応しい場所だと思うぜ」


 ◇ 


 領都バルトの北外れにあるその丘は、街一番の絶景スポットだった。


 眼下には、眠りについた領都の街並みが広がり、まばらな街灯が宝石箱をひっくり返したように瞬いている。  


 そして頭上には、それを凌駕する満天の星空。  


 吸い込まれそうなほどの黒と、降るような光の粒。


 二人は丘の上のベンチに腰を下ろした。


 しばらくの間、言葉はなかった。


 ただ、虫の声と風の音だけが、二人の鼓動と重なっていた。


「……美味かったな」


 唐突に、アレクが呟いた。


  「え?」


「お前の作った、あの白身魚のムニエルだよ。……厨房で味見させてもらった時、震えたぜ。今まで食べたナマズの中で一番美味かった。本当に魔法使いみたいだよな」


「ふふ。素材が良かったからよ」  


 ハルは微笑んだ。


「アレクが命がけで運んでくれた、ノワ村のナマズだもの。不味いわけがないわ」


「……違げぇよ」  


 アレクは首を横に振った。真剣な眼差しで、ハルを見つめる。


「お前が作ったからだ。……あの泥沼で出会った時から、お前はずっと魔法使いだった」



 4年前。  


 まだ16歳だった駆け出し商人のアレクと、14歳だった栄養失調のハル。


 泥道で車輪がハマり、絶望していたアレクの鼻腔をくすぐった、フライドポテトの黄金色の香り。


 あの瞬間から、アレクの運命は変わった。  


 ただの金儲けのためではない。


 この少女の料理を、もっと多くの人に届けたい。その一心で走ってきた。


「なあ、ハル」


「なに?」


「俺たちは4年前、契約を結んだよな」


 アレクの言葉に、ハルは懐かしそうに目を細めた。


 そうだ。あのボロ家で交わした、最初の契約。


 『お前は料理を作る。俺がお前の料理を売る。売上は折半。……二人で、泥沼から這い上がるぞ』


 泥だらけの手と手で結んだ、ビジネスパートナーとしての契約。


「あの契約書……まだ有効か?」


「もちろんよ。……私たち、まだ道半ばだもの」


「そうか」


 アレクは一度言葉を切り、夜空を見上げた。  


 その横顔は、いつもの自信満々な商人の顔ではなく、どこか不器用な、一人の青年の顔をしていた。


「この前、バルガスに剣を突きつけられた時……俺は怖かった」


  「……うん」


  「死ぬのが怖かったんじゃない。……お前を守れなくなるのが、怖かったんだ」


 ハルの胸がトクリと鳴る。  


 アレクの声が震えている。あの、いつも強気で頼れるアレクが。


「土下座して、床に頭をこすりつけて……それでもダメだと言われた時、俺は自分の無力さを呪った。金も、人脈も、商才も、権力の前じゃ紙切れ同然だった」


「そんなことない……!」


 ハルは思わず身を乗り出した。


「アレクがいたから、私は戦えたのよ! アレクが諦めずに食材を運んでくれたから、大公妃様を納得させられた。……アレクは私の盾で、最強の武器だった!」


「ハル」


 アレクが、ハルの言葉を遮るように、その手を取った。


 大きくて、温かくて、マメだらけの手。


 その手が、ハルの指を一本一本、愛おしそうに包み込む。


「俺は、もう嫌なんだ」


「え……?」


「ただの『相棒』じゃ、お前を守りきれない。ビジネスの契約だけじゃ、足りないんだ」


 アレクはハルの瞳を真っ直ぐに見据えた。


 その瞳には、星空よりも強く輝く光があった。


「契約内容の変更を申し込みたい」


「変更……?」


「ああ。……期間は、無期限。永久だ」


 アレクは懐から、小さな箱を取り出した。  


 カパッ、と蓋が開く。


 中に入っていたのは、宝石ではない。


 銀で作られた、小さな指輪。


 その意匠は、二人が最初に出会った時に食べた「芋の花」と、それを包む「ナマズ」を模したものだった。


  不格好だが、世界に一つしかない、特注品だ。


「報酬は……俺の人生すべて」  


 アレクの声が、熱を帯びる。


「その代わり、お前の人生の半分を、俺に預けてほしい」


 ハルの思考が停止する。  


 心臓の音が、耳元で鐘のように鳴り響く。  


 これは。  


 これは、つまり。


「ハル。……俺と結婚してくれ」


 夜風が止まった気がした。  


 星々さえも瞬きを止めて、二人を見守っているようだった。


「世界一の店を作る夢、これからは『パートナー』としてじゃなく……『夫婦』として叶えに行こう」


 涙が、溢れた。


 ポロポロと頬を伝い、アレクの手の甲に落ちる。


 嬉しい。  


 嬉しい、嬉しい、嬉しい。    


 ずっと、心のどこかで待っていた。  


 けれど、今の関係が壊れるのが怖くて、仕事に逃げて、気づかないふりをしてきた。


 でも、アレクは踏み込んでくれた。


 泥の中から私を引き上げてくれたあの日のように、私の手を引いて、新しい世界へ連れて行こうとしてくれている。


「……ずるいよ、アレク」


 ハルは泣き笑いのような顔で、声を震わせた。


「そんな条件……断れるわけないじゃない」


「……ハル」


「更新するわ、その契約。……私も、アレクじゃなきゃ嫌」


 ハルが頷いた瞬間、アレクの顔がパァっと輝いた。


 まるで、世界で一番大きな商談を成立させた時のような――いや、それとは比べ物にならないほどの、無邪気で幸せそうな笑顔。


「よっしゃぁぁぁ……!」


 アレクは叫び、ハルを強く抱きしめた。


「ありがとう、ハル! 一生大事にする! 絶対に、お前を泣かせない! 世界一幸せなシェフにしてやる!」


「苦しい、苦しいよアレク……!」


 ハルは彼の胸の中で笑った。  


 泥の匂いはもうしない。微かに残る香水の香りと、安心する彼の匂いだけ。


 ああ、ここは私の帰る場所だ。心からそう思えた。


 アレクはハルの体を少し離し、その頬に手を添えた。


 見つめ合う二人。


 距離が、ゆっくりと近づいていく。


「……契約の、封印だ」  


 アレクが囁く。


「うん……」  


 ハルは静かに目を閉じた。


 触れた唇は、温かくて、優しかった。


 長い、長い口づけ。  


 星空の下、二人の影が一つに重なる。


 それは、ただのキスの味ではなかった。  


 泥水をすすった苦労の味。


 勝利の美酒の味。  


 そして、これから二人で歩んでいく、甘くて輝かしい未来の味がした。


「愛してる、ハル」


「私も……愛してる、アレク」


 その夜、二人は「星空の契約書」にサインをした。


 インクは心、ペンは愛。


 有効期限は、命ある限り永遠に。


 街の灯りが、二人を祝福するように揺らめいている。


 その中の一つの窓で、明日の朝、この報告を聞いて飛び上がって喜ぶであろう、小さな妹の寝顔を思い浮かべながら。


 二人は手を繋ぎ、丘を降りていった。


 その足取りは、空を飛ぶように軽やかだった。

ご一読いただきありがとうございます!

思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。

もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。

今後の励みになりますのでもし「面白かった」「続きが読みたい」と思っていただけたら、 ページ下の【☆☆☆☆☆】からポイントを入れて応援してもらえると嬉しいです。


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