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泥の中の約束

いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。 温かい応援のおかげで、頑張れています。どうぞお楽しみください!

 決戦前日。  


 領都バルトの迎賓館にある広大な厨房は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの、重苦しい静寂に包まれていた。


 深夜。  


 窓の外では冷たい雨が降り始めていた。


 ハルは作業台の前で立ち尽くしていた。  


 目の前には、試作中のスープがある。泥の香りを活かし、野菜の甘みを極限まで引き出した、自信作になるはずのスープだ。  


 けれど今、ハルの手は小刻みに震え、味見のスプーンを口に運ぶことさえできずにいた。


 脳裏にこびりついているのは、数時間前にバルト伯爵がもたらした「絶望的な知らせ」だ。


『……すまない、ハル君。事態が悪化した』


 あの時、伯爵は幽霊でも見たかのように蒼白な顔をしていた。


 ただでさえ、美食院の査察官バルガスを相手にするだけでも分が悪い賭けだ。しかし、伯爵が震える声で告げた事実は、その比ではなかった。


『明後日の晩餐会に、急遽、王都から賓客ひんきゃくが参加されることになった』


『賓客……ですか? バルガス様だけでなく?』


『ああ。……エレオノーラ大公妃殿下だ』


 その名を聞いた瞬間、同席していたグルマン代官が椅子から転げ落ち、そのまま腰を抜かしたほどだ。


 エレオノーラ大公妃。  


 現国王陛下の叔母にあたり、王宮内でも別格の権力を持つ「鉄の女」。  


 そして何より、王立美食院の「名誉総裁」であり、国内で最も舌が肥え、最も厳しい批評家として知られる人物だった。  


 彼女の不興を買えば、ただでは済まない。


 かつて、スープの温度が一度違ったというだけで、宮廷料理長を解任したという噂さえある。


『バルガスは、自分の手柄をアピールするために彼女を呼んだらしい。「地方の不衛生な実態と、それを正す私を見てください」とな』


 伯爵の言葉が、呪いのようにリフレインする。


 それは、ハルにとって死刑宣告に等しかった。  


 バルガス一人相手なら、多少の「トンチ」や「奇策」も通じるかもしれない。言葉巧みに誘導し、罠に嵌めることもできるだろう。


 だが、相手は王族だ。しかも美食の頂点に立つ人物。  


 もし、彼女が「泥」を見て眉をひそめたら?  


「汚らわしい」と一言でも漏らせば、その瞬間に全てが終わる。  


 営業停止や御用達剥奪どころの話ではない。


「王族に泥を食べさせようとした」として不敬罪に問われ、その場で首が飛ぶ可能性すらあるのだ。


「……無理よ」


 カラン、と乾いた音が厨房に響いた。


 ハルの指から、スプーンが滑り落ちた音だった。


「こんな……泥と野菜だけの料理を、大公妃殿下に? 通用するわけない……」


 自信が、音を立てて崩れ落ちていく。


 自分の料理は「大衆食堂」の味だ。お腹を空かせた人をお腹いっぱいにするための、茶色くて温かい料理だ。  


 洗練された宮廷料理を食べ慣れた、雲の上の人の前に、泥付きの野菜を出して、「これが命です」なんて言える?  


 そんなの、ただの蛮勇だ。世間知らずの田舎娘の妄想だ。


「怖い……」


 ハルは作業台に手をつき、そのままズルズルとうずくまった。  


 膝が震えて力が入らない。


 もし失敗したら。  


 私一人が死ぬならまだいい。


 けれど、アレクは? マリーは?ノワ村のみんなは?  


 私のわがままで、みんなを巻き添えにしてしまう。


「逃げたい……」  


 口をついて出たのは、情けない本音だった。


 勝負なんて受けなければよかった。大人しく店を閉じて、どこか遠くへ逃げればよかったのだ。


 ザァァァァ……。


 雨音が強くなる。厨房の冷たい空気が、ハルの孤独を際立たせる。


 ――その時だった。


 バンッ!!


 厨房の裏口の扉が、乱暴に開かれた。  


 吹き込む風と雨。  そして、土の匂い。


「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」


 荒い呼吸と共に、一人の男が入ってきた。  


 泥まみれのブーツ。雨に濡れて張り付いた髪。全身から湯気を立たせているその姿は、まるで嵐の中から現れたようだった。


「……アレク?」


 ハルは呆然と顔を上げた。


 アレクだ。


 彼は大きな麻袋を二つ、両肩に担いでいた。  


 ノワ村までの往復五日の道のりを、不眠不休で駆け抜け、たった今戻ってきたのだ。


「……間に、合ったか」


 アレクは麻袋を作業台の上にドサリと置くと、その場に大の字になって倒れ込んだ。


「死ぬかと思ったぜ……。帰りは雨で道がぬかるんでてよ……馬も潰れちまうから、最後は走ってきた」


 彼は笑っていたが、その顔色は悪い。目の下には濃い隈ができ、唇は紫色に震えている。


 極限状態だ。誰がどう見ても、限界を超えている。


「アレク! 大丈夫!? なんでそこまで……」  


 ハルは慌てて駆け寄り、彼の泥だらけの頬に触れた。冷たい。


「へへ……約束、しただろ」  


 アレクはハルの手を握り返した。


 その手はゴツゴツとしていて、泥と豆だらけだったが、驚くほど力強かった。


「最高の食材を届けるってな。……見ろよ、ハル。ノワ村のみんなが、一番いいものを掘り出してくれたぞ」


 アレクが指差した麻袋からは、瑞々しい泥の匂いが漂っていた。


 中には、泥がついたままの最高のジャガイモと、根菜たち。


 そして、厳重に封をされた大きな革袋には、村の命である水。


 彼が命を削って運んできてくれた、勝利へのピース。


 けれど。


「……ごめん」  


 ハルは顔を歪め、涙をこぼした。


「ごめん、アレク。……私、もう無理かもしれない」


「あ?」  アレクが半身を起こし、怪訝そうに眉を寄せた。彼はまだ何も知らないのだ。


「状況が変わったのよ……。来るのはバルガスだけじゃないの」


「なんだって?」


「さっき連絡があったの。……エレオノーラ大公妃殿下が急遽参加されることになったって」


「たい、こうひ……? あの、王様の叔母上の?」  


 さすがのアレクも、その名を聞いて目を見開いた。


「そうよ! 相手は王族よ!? 失敗したら、営業停止どころか不敬罪で即刻処刑かもしれないのよ!?」


 ハルは叫んだ。恐怖が堰を切って溢れ出す。


「私なんかの料理じゃ無理よ! アレクやマリーを殺しちゃうくらいなら、今すぐ逃げたほうが……」


「ハル」


 アレクの手が、ハルの肩を強く掴んだ。


 強い力。痛いほどに。


 ハルはハッとして、アレクの目を見た。  


 充血した彼の瞳。そこには、王族の名を聞いた動揺も、同情もなかった。あるのは、燃えるような「怒り」と「信頼」だけだった。


「逃げる? ふざけるな」  


 低い声が、厨房に響いた。


「俺はな、お前の料理を信じて走ったんだ。お前が作るモンは、誰が食ったって美味い。そう信じてるから、泥水啜って帰ってきたんだよ」


「でも……相手は王族……」


「だから何だ!」


 アレクは怒鳴った。


「相手が王様だろうが、乞食だろうが、腹が減ってる人間であることに変わりはねえ! そうだろ!?」


 アレクは立ち上がり、作業台にある泥付きのジャガイモを一つ、手に取った。  


 そして、自分の服についた泥を指差した。


「見ろよ、この泥。……俺とお前が出会った時も、こうだったな」


 4年前。雪解けの泥道。


 アレクは泥沼で馬車を押していた。ハルは泥まみれのボロ家で震えていた。


 世界から見捨てられた場所で、二人は出会った。


   あの時、ハルが作ったオークの足指のポテト。  


 あの味が、二人の運命を変えたのだ。


「俺たちは泥の中から始まった。泥がただ汚いだけのモンじゃなくて、温かくて、栄養があって、命を育てる場所だってことを、世界で一番知ってるのは俺たちだろ?」


 アレクの声が、優しく、深く、ハルの凍りついた心に染み渡っていく。


「着飾った王都の連中に教えてやれよ。本当の『生きる力』ってやつを。……お前の料理は、世界一だ。この俺が保証する」


 その言葉は、どんな勲章よりも、どんな権威よりも、ハルに力をくれた。


 一番近くで、一番長く、自分の料理を食べてくれたパートナー。


  商売のことしか考えていないふりをして、いつだって私の料理を一番愛してくれていた彼。


 彼がここまでボロボロになって「世界一」だと言ってくれるなら。


 世界そのものを敵に回しても、戦える気がした。


「……アレク」


 ハルは涙を拭った。


 恐怖が消えたわけではない。


 けれど、それ以上に「伝えたい」という思いが湧き上がってきた。  


 私たちの泥が、どれほど誇り高いか。


 そして、この泥だらけの男が信じてくれた私の料理が、どれほど強いか。


「……わかった。私、やる」


「おう」


「泥臭いまま、ぶつかってやる。それが私たちの味だもんね」


 ハルはアレクの手からジャガイモを受け取った。  


 ずっしりと重い。  


 そこには、大地の命と、アレクの魂が詰まっていた。


「アレク、まだ倒れないでね。手伝って」


「人使いが荒いなぁ……。ま、乗りかかった船だ。とことん付き合うぜ」


 アレクはニカっと笑い、泥だらけの袖をまくり上げた。


 その笑顔を見た瞬間、ハルの胸の奥が熱くなった。  


 戦友としての信頼。


 それだけではない、もっと熱くて、甘い感情。  


 もしこの嵐を生き延びられたら、その時は――。


「最高の『泥スープ』を作るから。……味見、頼んだわよ」


「任せろ。俺の舌は、王族よりも肥えてるからな」


 深夜の厨房。  


 二人の影が重なる。


 身分も、権威も、常識も関係ない。


 ただ「美味しい」という真実だけを信じて、二人は鍋に向かい続けた。


 互いがなくてはならない存在であることを、言葉以上に確かめ合いながら。  


 この夜、二人の絆は「契約」を超え、何よりも強固な「愛」となったのだった。


 そして――運命の晩餐会当日が訪れる。

ご一読いただきありがとうございます!

思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。

もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。

今後の励みになりますのでもし「面白かった」「続きが読みたい」と思っていただけたら、 ページ下の【☆☆☆☆☆】からポイントを入れて応援してもらえると嬉しいです。


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