誇りを守る盾
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領都バルトの迎賓館。
バルト伯爵の居城があるこの街の迎賓館は、普段は他国の使節や王族を迎えるための豪奢な場所だが、今は冷徹な法廷のような空気に包まれていた。
部屋の中央にあるマホガニーの長机。
その向こう側には、王立美食院の第一席査察官バルガスが、退屈そうに肘をついて座っている。
対面に立っているのは、アレクだ。
彼は脇に分厚い書類の束を抱え、額に脂汗を浮かべながらも、決して相手の目から視線を逸らさずにいた。
ハルは、アレクの半歩後ろで、祈るように両手を握りしめて控えている。
「……アレク」
「大丈夫だ、ハル。お前は黙って見ていてくれ。これは商人の戦いだ」
アレクは小声でそう囁くと、意を決して書類を机の上に広げた。
それは、この4年間で彼が書き溜めてきた、『キッチン・ハルカゼ』およびノワ村の養殖事業に関する膨大な記録だった。
「バルガス様。どうか、このデータをご覧ください」
アレクの声は、努めて冷静だった。怒りを腹の底に押し込め、理性の仮面を被る。
それが今の彼にできる唯一の戦い方だった。
「まず、衛生面について。当店では過去4年間、延べ10万人以上のお客様にナマズ料理を提供してきましたが、食中毒の発生件数はゼロです。これは、徹底した泥抜き工程と十分な加熱処理、そして調理器具の煮沸消毒を義務付けているためです」
アレクは一枚の羊皮紙を指し示す。そこには、商業ギルドと医師会による連名の証明印が押されていた。
「次に、栄養価について。北方の冬は過酷です。多くの民がビタミン不足とタンパク質不足に苦しんでいます。しかし、ナマズとジャガイモ、そして行者ニンニクを組み合わせた当店のメニューが普及して以来、エスト周辺での脚気や壊血病の患者数は激減しました」
アレクは熱弁を振るう。
これは単なる金儲けの話ではない。自分たちの事業が、どれだけこの土地の人々の命を救い、生活を豊かにしてきたかという「誇り」の証明だ。
「そして経済効果です。かつて貧困にあえいでいたノワ村は、今や有数の生産拠点となり、納税額は以前の五十倍に達しています。我々の活動は、王国の国益にも大きく貢献しているのです! どうか、営業停止処分の撤回をお願いいたします!」
完璧なプレゼンテーションだった。
数字は嘘をつかない。
事実は揺るがない。
誰がどう見ても、ハルカゼの活動は称賛されるべきものであり、断罪される理由などどこにもないはずだった。
しかし。
「……ふぁ」
返ってきたのは、間の抜けたあくびだった。
バルガスは、アレクが提示した渾身の資料に、指一本触れようとしなかったのだ。
「終わったか? 行商人風情が、よくもまあペラペラと」
「なっ……見ていただけないのですか!?」
「見る必要がない」
バルガスは不快そうに鼻を鳴らし、目の前の書類を、汚い虫でも払うかのように手の甲で払いのけた。
バサバサと音を立てて、アレクの血と汗の結晶である記録が床に散らばる。
「な、何をッ……!」
「言葉を慎め。……貴様は根本的な勘違いをしている」
バルガスは椅子に深くもたれかかり、侮蔑の色を隠そうともせずにアレクを見下ろした。
「安全? 栄養? 金? ……そんなものは、家畜の餌の理屈だ」
「私たちの努力を家畜の餌……だと言うのですか?」
「そうだ。我々美食院が求めているのは『高貴なる食文化』だ。王国の民が口にするものは、美しく、清らかで、歴史あるものでなければならん」
バルガスは立ち上がり、窓の外に広がる整然とした領都の街並みを指差した。
「泥の中に潜む不気味な魚。鼻を突く野草の臭い。……どれだけ数字を並べ立てようが、それらが『生理的に不快』である事実は変わらんのだよ」
「不快……? 食べた人々は皆、笑顔になっています! 美味しいと言ってくれています!」
「それは彼らが無知で貧しいからだ! 泥水をすすって美味いと言う豚に、真の美食など理解できるものか!」
バルガスの罵倒が部屋に響く。
ハルが息を呑み、悔しさに唇を噛むのが気配でわかった。
アレクの体温が急上昇する。
「お前たちがやってきたことは、料理ではない。文化への冒涜だ」
バルガスは、床に落ちたハルのレシピ帳を革靴のつま先で踏みつけた。
「薄汚い村人が、泥をこねくり回して小銭を稼いだ。……所詮は、下賤な『泥遊び』に過ぎんのだよ」
その言葉が、アレクの理性を焼き切った。
(泥遊び……だと?)
脳裏に、あの日の光景が蘇る。
雪解けの泥道。
寒さで紫色に変色したハルの指先。
生きるために必死でナマズを押さえつけた感触。
街道の屋台で、煙と油にまみれながら必死に声を張り上げた日々。
そして、その稼ぎで買った真っ赤な靴を履いて、泣いて喜んだマリーの笑顔。
それらすべてを。
俺たちの命懸けの4年間を。
この男は今、たった一言で否定した。
安全な場所で、綺麗な服を着て、一度も腹を空かせたことのないこの男が。
「――とり、消してください」
アレクの喉から、低い唸り声が漏れた。 商人の仮面が剥がれ落ちる。
「貴方に……俺たちの何がわかるッ!!」
ドンッ!
アレクが一歩、バルガスへと踏み出した、その瞬間だった。
ジャリッ。
金属が擦れる冷たい音と共に、アレクの喉元に、白銀の剣先が突きつけられた。
バルガスの護衛騎士だ。
神速の抜刀。あと半歩進んでいれば、アレクの喉は貫かれていただろう。
「……下がりなさい、平民」
騎士が氷のような声で告げる。
「次は斬る」という明確な殺気が、肌を刺す。
「アレク!!」
ハルが悲鳴を上げ、アレクの腕にしがみついた。
「やめて! お願い、やめて!!」
ハルの体温と、必死な声で、アレクは現実に引き戻された。
目の前には、喉元の剣。
そしてその奥で、バルガスが眉一つ動かさずにこちらを見下ろしている。
驚きも、怒りもしない。
ただ、「汚いものが近づいてきた」というだけの冷淡な目。
「……野蛮な」
バルガスはハンカチで鼻を覆い、溜息をついた。
「議論で勝てぬとなれば暴力か。これだから、教育のない層は困る。……おい、その狂犬を摘み出せ」
「はッ!」
騎士たちが動き出す。
殴りかかることすらできなかった。
命を賭して抗うことさえ、「汚らわしい」と拒絶されたのだ。
その圧倒的な身分の壁。暴力装置の差。
アレクは全身をわななかせ、唇から血が滲むほど噛み締めた。
ここで暴れれば、俺は死ぬ。
俺が死ねば、ハルは「反逆者の仲間」として処刑され、マリーは路頭に迷う。
殺したいほど憎い男が目の前にいるのに、俺は――。
ガッ。
アレクは自ら、床に膝を叩きつけた。
突きつけられた剣の下で、額を床に擦り付ける。
「…………申し訳、ございませんでした」
それは、アレクの人生で最も重く、最も惨めな土下座だった。
魂を削り取るような謝罪。
「ご無礼をお許しください……! どうか、どうか再考を……我々の店だけでなく、村の生活もかかっているのです。何卒……何卒……!」
涙が床に落ちて染みを作る。
悔しい。悔しい。悔しい。
だが、今はこうして、犬のように這いつくばるしかなかった。
ハルとマリーを守るためには、プライドなどドブに捨てるしかなかった。
バルガスは、足元で震える若者を一瞥し、興味なさげに背を向けた。
「……興が削がれた。消えろ」
「は……」
「二度目はない。さっさとゴミを持って出ていけ」
◇
迎賓館を出ると、日は既に傾きかけていた。
夕焼けが、領都バルトの堅牢な城壁を赤く染めている。
荘厳な景色だが、今のアレクには血の色にしか見えなかった。
人気のない路地裏に入った瞬間。
「クソッ! クソッ、クソッ、クソォォォッ!!」
アレクは煉瓦の壁を殴りつけた。
一度では収まらない。
何度も、何度も。
拳の皮が破れ、壁に赤い染みがつくのも構わずに殴り続ける。
「なんでだ……! なんで、あんな奴らに! 俺たちが何をしたって言うんだ!」
悔し涙が溢れ出て止まらない。
ハルを守りたかった。村を守りたかった。
なのに、結局は頭を下げて、媚びへつらって、何も守れなかった。
自分の無力さが、情けなくて仕方がなかった。
「……アレク」
背中から、温かい手が回された。
ハルだ。
彼女はアレクの背中に額を押し付け、震える体を抱きしめた。
「ごめんね。私のために……あんな奴に頭を下げさせて」
「……違う。俺が、力不足なだけだ。お前の料理の凄さを、あいつらに解らせてやれなかった」
「ううん。アレクは凄かったよ」
ハルの声は優しく、しかし確信に満ちていた。
「私だったら、きっと泣いて諦めてた。でもアレクは、最後まで戦ってくれた。……殴るのを我慢してくれたのは、私とマリーのためでしょ?」
アレクの動きが止まる。
ハルは、傷だらけになったアレクの右手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
痛々しい傷口に、彼女の涙が落ちる。
「ありがとう、アレク。私の誇りを守ってくれて。……あなたは、世界一のパートナーよ」
その言葉が、アレクの荒れ狂う心に染み渡っていく。
一番守りたかった相手が、そう言ってくれている。
それだけで、千切れたプライドが縫い合わされていくようだった。
「……ハル」
アレクは壁にもたれかかり、ハルの顔を見た。
夕日に照らされた彼女の瞳には、もう迷いの色はなかった。
そこにあるのは、静かで、強烈な「怒り」の炎だ。
「私の料理を『泥遊び』って言ったこと、絶対に許さない」
ハルは、アレクの傷ついた手を強く握り返した。
「アレクが守ってくれたこの手で、必ず勝つわ。言葉も理屈も通じないあの男を、味だけでひれ伏させてやる」
「ああ……そうだな」
アレクもまた、目に力を取り戻した。
交渉は決裂した。もう言葉はいらない。 ここからは、料理人の戦争だ。
「やろうぜ、ハル。俺たちの『泥』が、王都の金ピカよりも輝いてるってことを証明してやるんだ」
二人は夕闇の中で、固く誓い合った。
理不尽な権力という巨大な壁に対し、二人の絆と料理だけで挑む、最後の戦いが始まろうとしていた。
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