胃袋を掴め
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静寂。
広場を支配していたのは、完全なる静寂だった。
グルマン代官は、スプーンを口に運んだ姿勢のまま、石像のように固まっていた。
彼の目が見開かれ、その瞳孔が震えているのを、私はカウンター越しにはっきりと見た。
彼が今、口にしたのは『特製ポテトのポタージュ』。
ただの芋のスープではない。
北国産の甘いジャガイモと玉ねぎを、極上のバターで炒め、ナマズのアラから取った濃厚なブイヨンで煮込み、丁寧に裏ごししたものだ。
長い沈黙の後、グルマンが掠れた声で呟いた。
「舌触りが……まるで絹だ」
彼は信じられないという顔で、カップの中を覗き込んだ。
ザラつきなど微塵もない。
口に含んだ瞬間、とろりと舌に絡みつき、体温で溶けるように広がっていく。
最初に感じるのは、バターとミルクの優雅なコク。
次に、ジャガイモと玉ねぎが持つ、大地の優しい甘み。
そして最後に、鼻に抜ける奥深い「魚介の旨味」が、全体を力強く支えている。
「芋の泥臭さが……ない? いや、それどころか、これは……」
グルマンの手が、無意識に動いた。
二口目。三口目。 止まらない。
「芸がない」と嘲笑っていた男が、今は夢中でスプーンを動かしている。
温かい液体が喉を通り過ぎるたびに、彼の強張っていた肩の力が抜け、眉間の険しい皺がほどけていく。
それは、冷え切った心と体を内側から温める、魔法の飲み薬のようだった。
「……ふぅ」
カチャリ。
空になったカップを置く音が、静寂に響いた。
グルマンはハッとして顔を上げた。自分が無我夢中で平らげてしまったことに、今気づいたようだった。
「……悪くはない」
彼はハンカチで口を拭い、必死に威厳を取り繕った。
だが、その声には先ほどまでの鋭い棘がない。
「だが、これはあくまで前座だ。スープで腹は膨れん」
「ええ、仰る通りです」
私は静かに頷き、メインディッシュを指し示した。
「では、本番をどうぞ」
目の前に置かれた、黒塗りの重箱。
グルマンはゴクリと喉を鳴らし、その蓋に手をかけた。
パカッ。
蓋が開けられた瞬間。
封じ込められていた「魔物」が解き放たれた。
ブワァァァッ!!
立ち昇る白い湯気と共に、濃厚で甘辛い醤油の香り、炭火の燻された香り、そして山椒の爽やかな刺激が、グルマンの顔面を直撃した。
「――っ!!」
彼はのけぞった。
視界に飛び込んできたのは、白いご飯が見えないほどに敷き詰められた、黄金色のナマズの蒲焼。
タレを纏って艶やかに輝くその姿は、まるで宝石箱だ。
「こ、これが……あの泥の中にいた魚だと……?」
グルマンの手が震える。
彼は抗えない本能に従い、箸を手に取った。
そして、最も肉厚な部分を持ち上げようとした。
スッ……。
箸先が、何の抵抗もなく身に入った。
あまりの柔らかさに、持ち上げると崩れてしまいそうだ。
彼は慌てて、ご飯と一緒にそれを口へと放り込んだ。
ハムッ。 ……。
咀嚼する音が、聞こえない。
噛む必要がないのだ。
カリッと香ばしく焼かれた皮目を歯が破ると、中の身は雪解けのようにフワフワと崩れ、口の中で溶けてしまった。
「……あ……」
グルマンの口から、吐息のような声が漏れた。
一度蒸すことで凝縮された旨味。
余分な脂は落ち、コラーゲン質のトロトロとした食感だけが残っている。
そこへ絡みつく、継ぎ足しの秘伝ダレ。
醤油の塩気と砂糖の甘み、そしてナマズの脂が一体となった「味の暴力」が、彼の脳髄を直接揺さぶった。
(なんだ……この感覚は……)
グルマンの脳裏に、走馬灯のように光景が浮かんだ。
それは、王都の豪華なレストランではない。
金ピカの食器も、堅苦しいマナーもない。
夕暮れ時の、小さな台所。
コトコトと煮える鍋の音。
漂ってくる、醤油と砂糖の焦げる匂い。
「おかえり」と振り返る、割烹着を着た母親の笑顔。
『今日はグルマンの好きな、甘辛煮だよ』
貧しかったけれど、温かかったあの日々。
出世のために人を蹴落とし、汚い金を貯め込み、贅沢な食事を重ねるうちに、いつの間にか忘れてしまっていた記憶。
舌だけが肥えて、心は常に飢えていた自分。
でも、この料理は違う。
これは……「愛」の味だ。
「……かあ……さん……」
グルマンの目から、一筋の涙がツーっと流れ落ちた。
その涙を見て、周囲の空気が一変した。
あの傲慢で冷酷だった代官が、泣いている。
まるで、迷子になった子供のように。
グルマンはもう、何も言わなかった。
ただ、ひたすらに箸を動かした。
ガツッ、ガツッ。 かきこむ。
白いご飯には、タレが染み込んで茶色くなっている。
それだけでご馳走だ。
山椒の痺れが、次の一口を誘う。
休むことなく、息継ぎさえ惜しむように。
「うまい……うまい……!」
彼が発する言葉は、それだけだった。
美食家のプライドも、代官としての体面も、すべてが吹き飛んでいた。
そこにあるのは、美味しいものに救われた、一人の人間としての姿だけ。
その姿を見て、厨房の陰でアレクが小さくガッツポーズをした。
冒険者のリーダーは、よだれを垂らしながら「マジかよ……あのオッサンを泣かせやがった」と呆然としている。
村人たちも、固唾を飲んでその光景を見守っていた。
カタン。
最後の一粒まで綺麗に平らげられた重箱の中に、箸が置かれた。
グルマンは、空になった箱を名残惜しそうに見つめ、それから深く、深く息を吐いた。
「……ふぅぅぅぅ」
彼は顔を上げた。
その顔は、憑き物が落ちたように穏やかで、赤く上気していた。
彼は懐からハンカチを取り出して顔を拭い、私を真っ直ぐに見た。
「……料理人」
「はい」
「名は、なんと言う」
「ハルです」
グルマンは、しばらく私を見つめ、そして重々しく口を開いた。
「……完敗だ」
その一言が、勝利のファンファーレのように広場に響いた。
「私は今まで、世界中の美味いものを食べてきたつもりだった。だが……これほどの衝撃を受けたのは初めてだ」
彼は重箱を愛おしそうに撫でた。
「この蒲焼重……。私の人生で食べたものの中で、間違いなく一番美味かった」
どよめきが起きる。
あの代官が、自分の負けを認めた。 それも、最大限の賛辞と共に。
「ハル、と言ったな。……貴様は、恐ろしい魔術師だ」
グルマンは苦笑した。
「私の怒りも、欲望も、すべてこの重箱の中に溶かされてしまったよ。……こんなに満たされた気分は、数十年ぶりだ」
彼は立ち上がった。 衛兵たちが緊張して構えるが、グルマンは手を挙げてそれを制した。そして、衛兵たちに向かって叫んだ。
「槍を収めろ! 撤収だ!」
「は、はあ? しかし代官様、処刑は……」
「馬鹿者が! こんな至高の料理人、殺してどうする! 領地の損失だぞ!」
グルマンの一喝に、衛兵たちが慌てて槍を下ろす。
そして、彼は私とアレクの方に向き直り、ニヤリと笑った。
それは、最初の冷酷な笑みとは違う、どこか愛嬌のある、食いしん坊の笑みだった。
「約束だ。今日のところは見逃してやろう。店も、レシピも、貴様らの命もな」
わぁぁぁぁっ……!! 歓声が上がった。
村人たちが抱き合い、マリーが私に飛びついてくる。
アレクが「よっしゃあ!」と叫んで、冒険者たちとハイタッチをしている。
私は、その喧騒の中で、深くお辞儀をした。
「ありがとうございました、お代官様」
グルマンはふんっと鼻を鳴らし、踵を返そうとした。
だが、その足を止めたのは、すかさず駆け寄ったアレクだった。
「お代官様! ……少々、ご相談が」
アレクは商人スマイル全開で、グルマンに擦り寄った。
ここからが、本当の「商談」の時間だ。
「……なんだ、小僧」
「見逃すだけ……で、よろしいのですか?」
「何?」
「こんなに美味しいもの、今日一度きりで終わりにしてしまって……本当に後悔しませんか?」
その言葉に、グルマンの肩がピクリと跳ねた。
アレクは、悪魔のように、いや、天使のように甘く囁いた。
「もしよろしければ……もっと『いい話』、しませんか?」
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