泥の中の出会い
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勢いよく飛び出したものの、外の世界は甘くなかった。
一歩踏み出した瞬間、ズブズブという嫌な感触と共に、足首まで泥に飲み込まれる。
雪解け水を含んだ地面は、まるで底なし沼のようだ。裸足に近いボロ靴の隙間から、氷のように冷たい泥水が染み込んでくる。
普段の私なら、寒さと冷たさで即座に家に逃げ帰っていただろう。
けれど、今の私の血管には、アドレナリンという名の熱い血液が流れている。
寒さなんて感じない。
私の目は、ただ一点――目の前で立ち往生している「獲物」だけに固定されていた。
「くそっ、動けよ……! 頼むから!」
すぐ目の前で、赤毛の少年が悪態をつきながら、必死に車輪を押し上げようとしていた。
年齢は私より少し年上くらいだろうか。
身なりはしっかりしているが、今は泥だらけだ。
彼は顔を真っ赤にして踏ん張っているが、荷車は泥に深く沈み込み、ビクともしない。
(……状況分析)
私は冷静に観察する。荷車の積載量は、彼の体格に対して過積載気味。そして右の車輪がぬかるみにはまり、完全にスタックしている。
これを力任せに動かそうとすれば、車軸が折れるか、荷崩れを起こすのがオチだ。
ガタンッ! 無理に押した拍子に、荷台が揺れた。その隙間から見えた木樽が、タプンと重たい音を立てる。
(――ターゲット確認)
間違いない。
あの音の粘度、そして樽の形状。中身は水やワインじゃない。もっと粘り気のある液体……おそらくは『植物油』か『ラード』!
私の目は怪しく光った。彼一人では、どうあがいてもこの状況を打破できない。つまり、彼には「労働力」が必要で、私には「対価」が必要。
完璧な需要と供給の一致だ。
私は口角を上げ、商談に向かう営業スマイルを貼り付けると、泥道を進んだ。
「あら、大変そうですね」
できるだけ愛想よく声をかける。
泥と格闘していた少年が、ビクッと肩を震わせて顔を上げた。
「うわっ!? ……な、なんだ、村人か?」
彼は私を見て、少し後ずさるように身構えた。無理もない。こんな辺境の、しかも泥だらけの道に、目が血走った痩せっぽちの少女がいきなり現れたのだから。山賊の手先かと疑っているのかもしれない。
警戒心丸出しの目。けれど、私には彼が「歩く調理油」にしか見えていなかった。
「怪しいものじゃありませんよ。ただ、このままだと日が暮れちゃうなと思って」
「っ、わかってるよ! でも動かないんだ。……おい、まさか金なら無いぞ。俺はまだ一つも商売してないんだからな」
少年は威嚇するように言った。
どうやら、通行料をせびりに来たと思われているらしい。
私はかぶりを振った。
「お金なんて要りません。私が欲しいのは、現物支給」
「現物?」
「ええ。私がその荷車を泥から出すのを手伝います。その代わり――」
私はビシッと、荷台の上の木樽を指差した。
「報酬として、その樽の中身をカップ一杯分。それと、そっちの麻袋に入っている岩塩を、ひとつまみ。それで手を打ちませんか?」
少年はポカンと口を開けた。
彼にしてみれば、予想外の提案だったのだろう。雪解けの時期に、わざわざ危険を冒してここまで来るような行商人だ。一攫千金を狙って、もっと法外な要求をされると身構えていたに違いない。
「は? 油と塩……それだけでいいのか?」
「それ『だけ』? ふふ、交渉成立ですね」
私は逃さず言質を取った。
彼にとっては「それだけ」かもしれない。でも今の私にとっては、金貨よりも価値があるライフラインだ。
「ちょ、ちょっと待て! まだ頼むとは言ってない!大体、あんたみたいなヒョロヒョロの女に何ができるんだよ。俺が全力で押しても動かないんだぞ?」
彼は疑わしげな視線を私の腕に向けた。 確かに、私の一四歳の体は栄養失調気味で、腕力なんてマリーと大差ないかもしれない。
でも、メニュー開発の現場だって同じだ。
予算も人手も足りない時、最後に物を言うのは「力」じゃない。「知恵」だ。
「力任せにやるから沈むんです。……ちょっと待ってて」
私は一旦家の裏手に回り、雪の下から一本の棒きれを引っ張り出してきた。
以前、家の屋根を直した時に余った丈夫な角材だ。それと、手頃な大きさの平たい石を数個抱えて戻る。
「おい、何をする気だ?」
「物理学で解決します。……ほら、そこどいて」
「……ぶつりがく?」
私は車輪が沈み込んでいる泥の縁に石を置き、その上に角材を差し込んだ。いわゆる「てこの原理」だ。 支点をしっかりと固定し、角材の先端を車軸の下に噛ませる。
「私が合図したら、あなたは全力で荷車を前に押してください。いいですね?」
「は、はぁ? そんな木切れ一本で……」
「いいから! 日が暮れたら、この辺は狼が出るんですよ!」
脅し文句を口にすると、彼は青ざめて慌てて荷車の後ろに回った。素直でよろしい。
私は角材の端に、全体重をかけるようにして構えた。
「いきますよ……せーのっ!!」
私が全体重をかけて角材を押し下げると同時に、彼が唸り声を上げて荷車を押す。
ズズッ、と鈍い音がした。
「ぐぬぬぬ……っ!」
重い。 錆びついた車軸の悲鳴と、泥が吸い付くような抵抗。角材がきしむ音がする。
折れるか?
いや、耐えてくれ。私のフライドポテトのために!
(動け、動け、動けぇぇぇ!!)
私は歯を食いしばり、なりふり構わず角材にぶら下がった。前世のブラック企業で培った、「納期前の火事場の馬鹿力」をナメるな!
ズポンッ!!
湿った音がして、車輪が泥の拘束から解き放たれた。車体が浮き上がった瞬間、彼が渾身の力で押し込む。 荷車はゴトゴトと音を立てて、少し先の固い地面の上へと転がり出た。
「はぁ、はぁ……い、いったぁ……!」
私は泥の中に尻餅をついた。 肩で息をする。心臓が早鐘を打っている。顔にかかった泥を拭うと、荷車の向こうから少年が走ってきた。
「す、すげぇ! 本当に動きやがった!」
「はぁ……だから言ったでしょ。力より知恵だって」
「あんた、何者なんだ? ただの村娘じゃねぇな?」
彼は目を輝かせて私を見下ろしている。さっきまでの警戒心は消え、純粋な驚きと尊敬が混じったような表情だ。
私は泥だらけの手を差し出した。握手のためじゃない。
「村娘のハルです。……さあ、約束の報酬を」
「あ、ああ。そうだったな」
彼は苦笑いして、私の手を取って立たせてくれた。その手は温かく、分厚かった。商人の手というよりは、剣でも握っていそうな武骨な手だ。
「俺はアレク。ノーブル商会から独立したばかりの、しがない行商人だ。……助かったよ、ハル」
アレクと名乗った少年は、荷台の覆いをめくり、約束の木樽の栓を抜いた。
プーンと、独特の香りが漂う。菜種油だ。それも、かなり精製度の高い上物。
「ほら、カップ貸してくれ」
「あ、家にあるので取ってきます。……あがってください。外じゃ寒いでしょ?」
私はボロ家を指差した。
アレクは少し躊躇したが、吹き付ける風の冷たさに観念したのか、荷車を家の壁際に寄せてから頷いた。
「恩に着る。正直、指先の感覚がなくなってたんだ」
私たちは泥だらけのまま、家の中へと入った。
◇
家の中に入った瞬間、アレクが息を呑む気配がした。無理もない。外から見てもボロ屋だが、中はもっと酷い。
家具と呼べるのは傾いたテーブルと椅子が二脚だけ。壁の隙間からは光が漏れ、暖炉には薪の代わりに拾ってきた小枝が数本くべられているだけだ。
そして何より、部屋の隅で毛布にくるまって震えている、小さな影。
「お、お姉ちゃん……? 大丈夫?」
マリーが心配そうに顔を上げた。その痩せこけた頬と、不自然に大きな瞳を見た瞬間、アレクの表情が凍りついた。
「……おい。この子は……」
「妹のマリーです。五歳になりました」
「五歳!? 三歳くらいにしか見えねぇぞ……」
アレクの声が震えている。 彼は部屋の中を見回し、テーブルの上に放置されたままの「夕食」――泥色のスープと、不味そうな芋に視線を止めた。
そして、ようやく理解したようだった。
私がなぜ、あんな必死な形相で泥の中に飛び出し、たかが油一杯のために全力で荷車を押したのかを。
「……すまねぇ」
アレクは搾り出すように言った。
「俺、村人なんてみんな図太いもんだと思ってた。……こんな、ギリギリの生活してるとは知らなくて」
「謝らないでください。ここは辺境ですから、冬の終わりはみんなこんなものです」
私は淡々と答えながら、棚から唯一まともなマグカップを取り出した。
それをアレクに突きつける。
「同情はいりません。契約通り、報酬を」
「……ああ。わかった」
アレクは真剣な顔で頷くと、抱えてきた木樽から、カップの縁ギリギリまで油を注いでくれた。
黄金色に輝く液体。
表面張力で盛り上がるほどの量は、約束よりも明らかに多い。
さらに彼は、麻袋から岩塩の塊をいくつか取り出し、テーブルの上に置いた。
「これはサービスだ。……命の恩人への追加報酬だよ」
「商売人失格ですよ、そんなに大盤振る舞いして」
私は憎まれ口を叩きながらも、その岩塩をありがたく受け取った。
これで、役者は揃った。油。塩。そして主役の『オークの足指』。
私はさっそく、手に入れたばかりの油を鍋に注ぎ、かまどの火を強めた。パチパチと小枝が爆ぜる音と共に、油の温度が上がっていく。
「おい、何を作る気だ?」
アレクが不思議そうに覗き込んでくる。
私は包丁を手に取り、泥だらけの芋と向き合った。
「料理ですよ。最高に美味しいご馳走です」
「ご馳走って……その黒い石っころみたいな芋か?」
アレクが顔をしかめた。 無理もない反応だ。この国で『オークの足指』は、飢饉の時に仕方なく食べる非常食以下の扱い。家畜の餌と言われる所以である。
「やめとけよ。それ、俺も食ったことあるけど、口の中が痺れて泥の味しかしねぇぞ。そんな小さな子に食わせたら、腹壊すって」
彼は本気で心配してくれているようだ。いい奴だ。でも、甘い。彼はまだ知らないのだ。この醜い芋が秘めている、悪魔的なポテンシャルを。
「ふふ。見ててください、アレクさん」
私はニヤリと笑った。 職人の顔になる。
「この芋が嫌われている理由は、皮にある強烈なエグみと、煮込んだ時の食感の悪さ。……だったら、その弱点をすべて消して、長所だけを爆発させてあげればいい」
私は手際よく芋の皮を厚く剥き落とした。
現れたのは、白くてきめ細かい中身。それを棒状にカットし、用意しておいた水にサッとくぐらせて表面のアクを洗う。布切れで水気を丁寧に拭き取り――。
準備完了。
鍋の中では、油が良い温度になって、ゆらゆらと陽炎を上げている。
私はカットした芋を、油の中へと滑り込ませた。
ジュワァァァァ――――ッ!!
一瞬にして、部屋の中に爆発的な音が響いた。水分が弾ける激しい音。それまで寒々しかった部屋に、生命力のある音が満ちていく。
「うおっ!? な、なんだ!?」
「わぁ……すごい音!」
アレクとマリーが同時に目を丸くする。
ここからだ。
まだ誰も知らない魔法が、ここで起きる。油の中で踊る芋たちは、徐々にその色を変えていく。白から、薄い黄色へ。そして食欲をそそるキツネ色へ。
メイラード反応。糖とアミノ酸が加熱されて結びつき、香ばしさと旨味を生み出す化学反応。
やがて、部屋の中に漂い始めたのは――泥臭さなど微塵もない、暴力的なまでに香ばしい、揚げたての芋の香りだった。
グゥゥゥゥ。 グゥゥ。
背後で、二つのお腹が同時に鳴った。
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