黒い馬車の来訪
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『キッチン・ハルカゼ』が始動してから、一ヶ月が過ぎようとしていた。
ノワ村の風景は、劇的に変わった。
かつて廃屋同然だった家々の屋根は修繕され、村人たちはツギハギのない新しい服を着ている。
痩せこけて目が虚ろだった子供たちは、今では頬を赤くして広場を走り回り、その手には甘いクッキーや、焼きたてのパンが握られている。
村の共有財産となった荷馬車『輸送号』は、三日に一度のペースでエストの街と村を往復し、小麦粉、調味料、布、農具といった生活必需品を大量に運んでくる。
逆に村からは、燻製にしたナマズや、収穫されたばかりの新鮮な野菜が出荷されていく。
経済が、回っている。
血が巡るように、金と物が循環し、村という一つの生命体が力強く脈打ち始めていた。
「ハル! ナマズバーガー追加10個だ!」 「はい、ただいま!」
私は『ナマズ号』の車内で、額の汗を拭いながら大鍋を振った。
今日も街道は大繁盛だ。
香ばしい醤油の香りが漂い、客たちの笑い声が響く。
隣では、マリーが「ありがとうございました!」と元気よく接客をし、アレクが手際よく硬貨を数えている。
幸せだった。
あまりにも順調で、あまりにも満たされていて。
私は、忘れていたのだ。
光が強くなればなるほど、その足元に落ちる「影」もまた、濃くなるということを。
◇
異変は、唐突に訪れた。
ヒヒィィィンッ!!
街道の向こうから、神経質な馬のいななきが聞こえた。
それも一頭ではない。複数の、訓練された軍馬の蹄の音が、地響きのように近づいてくる。
「……なんだ?」
並んでいた客たちが、怪訝な顔で振り返る。
アレクの手が止まる。
私も鍋を火から下ろし、窓の外を見た。
春の陽気に包まれた穏やかな街道に、似つかわしくない「黒い異物」が現れた。
漆黒に塗られた役人が乗る、威圧的な黒塗りの公用馬車。
その前後を、槍を持った四騎の衛兵が固めていた。
「……代官様の馬車だ」
「なんでこんな所に……?」
客たちがざわめき、慌てて道を開ける。
馬車は『キッチン・ハルカゼ』の目の前で、砂埃を上げて停車した。
ギィィッ。 重々しい音と共に扉が開く。
中から降りてきたのは、一人の男だった。
上質なベルベットの服に身を包んだ、恰幅の良い中年男。
突き出た腹は富の象徴のように揺れ、脂ぎった顔には不釣り合いなほど鋭い、爬虫類のような目が光っている。
彼からは、強い香水の匂いが漂っていたが、それは現場の蒲焼の匂いと混ざり合い、ひどく不快な臭気を放っていた。
「……ふん。ここか」
男はハンカチで鼻を押さえながら、蔑むような視線で私たちの店を見上げた。
そして、その目が「ナマズの絵」に留まった瞬間、ピクリと眉を動かした。
「……誰だ、ここの責任者は」
低く、ねっとりとした声だった。
アレクが素早く私の前に立ち、営業用の笑顔を貼り付けた。
「へい! 私でございます、お代官様! 旅の疲れを癒やす極上の料理はいかが――」
「黙れ、下郎」
男は言葉尻を被せるように一喝した。
その声の冷たさに、アレクの笑顔が凍りつく。
「私はこの地域の徴税と治安を預かる代官、グルマンだ。……貴様ら、ここで何をしている?」
「何って……見ての通り、食事処を営んでおりますが」 「許可は? 営業許可証を見せろ」
アレクが懐から羊皮紙を取り出す。
それは隣町エストの商業ギルドで発行してもらった、正規の登録証だ。
「こちらにございます。手続きはすべて――」
ビリッ。
グルマン代官は、受け取った羊皮紙を見ることもなく、その場で破り捨てた。
「――は?」
アレクが呆気にとられる。
紙片がヒラヒラと風に舞い、泥の上に落ちた。
「許可だと? 笑わせるな。ここはエストの管轄ではない。バルト伯爵領、すなわち『私の庭』だ。私の許可なく商売を行うなど、盗っ人と変わらん」
グルマンはねっとりとした視線を、私に向けた。
いや、正確には私の後ろにある「大鍋」と、そこに溜まった「売上の入った革袋」に向けた。
「それに聞いたぞ。貴様ら、この沼の『主』を勝手に捕らえ、売りさばいているそうだな?」
「……それが何か?」
私が口を開くと、アレクが制しようとしたが、私は止まらなかった。
「あの沼の魚は、誰のものでもありません。村のみんなが命がけで――」
「違うな」
グルマンは鼻で笑った。
「この領地の山、川、沼、そこに生きる獣や魚に至るまで、すべては領主様のものだ。貴様らがやっていることは『密漁』であり、『横領』だ」
彼は一歩、こちらに近づいた。
その圧迫感に、マリーが私のエプロンをギュッと握りしめて震える。
「直ちに営業を停止しろ。そして、これまでの不当な利益――そうだな、売上の九割を『賠償金』として納めろ」
「きゅ、九割!?」
アレクが叫んだ。
九割なんて、事実上の全没収だ。そんなことをされたら、次の仕入れもできない。村の物流も止まる。
「そ、そんな無茶苦茶な! 法外すぎます!」
「無茶ではない。慈悲だ。本来なら首を刎ねるところを、金で許してやろうと言っているのだ」
グルマンは、ニヤリと唇を歪めた。
その目は、明らかに「法」を守る者の目ではなかった。
獲物を見つけたハイエナの目。
私利私欲のために、弱者から搾り取ろうとする、腐敗した権力者の目だ。
(こいつ……!)
私は拳を握りしめた。
彼は知っているのだ。この店が、異常なほど儲かっていることを。
そして、私たちが元は力のない貧民であることを。
だから来たのだ。難癖をつけて、その富を根こそぎ奪い取るために。
「それとな」
グルマンは、大きな鼻をヒクつかせ、鍋の方を指差した。
「その料理……妙に良い匂いがする。貴様ら、何か『怪しい薬』でも使っているのではないか?」
「薬……? 馬鹿な、ただの調味料です!」
「ふん、怪しいな。……その『レシピ』と『タレ』もすべて没収する。私が直々に調査してやろう」
背筋が凍った。
金だけじゃない。彼は、この店の命である「味」そのものを奪おうとしている。
レシピを奪い、自分たちのものにして、利益を独占するつもりだ。
「断る!」
私は叫んでいた。
「お金なら、正当な税は払います。でも、この店の権利とレシピだけは渡せません! これは……私たちが命がけで作ったものなんです!」
「命がけ、か……」
グルマンはつまらなそうに鼻を鳴らすと、衛兵たちに顎で合図をした。
「抵抗するなら仕方あるまい。……店ごと焼き払え。女と金は確保しろ」
シャキンッ。
衛兵たちが槍を構え、私たちの「城」であるキッチンカーを取り囲んだ。
「や、やめろ……!」
アレクが前に出ようとするが、穂先を突きつけられて動けない。
客たちは悲鳴を上げて逃げ出した。
せっかくの春の賑わいが、一瞬にして恐怖のどん底に叩き落とされる。
(どうして……)
私はマリーを背中に庇いながら、歯を食いしばった。
どうして、大人はいつもこうなんだ。
私たちが必死に泥を啜って、知恵を絞って、ようやく掴んだ小さな幸せを、どうして土足で踏みにじるんだ。
冬の寒さよりも冷たい、悪意という名の氷が、私の心を締め付けた。
これが、この世界の現実。
力なき者は、ただ奪われるだけの存在なのか。
「さあ、まずはその車を壊せ!」
グルマンの号令と共に、衛兵の一人が槍の石突きを振り上げた。
狙いは、私たちが心血を注いで作ったカウンターだ。
「やめてぇぇッ!!」
私の叫び声が響く。
しかし、振り下ろされる暴力は止まらない。
ガッ――!
鈍い音が響いた。 だが、木が砕ける音ではなかった。
肉と骨がぶつかる、重い音だ。
「……ぐぅっ!」
私の目の前で、槍を受け止めた背中があった。
アレクではない。
「そ、村長……!?」
鍬一本で槍を受け止めたのは、腰の曲がった村長だった。
その手は震え、膝は笑っている。けれど、彼は一歩も退かなかった。
「……手出しは、させんぞ」
村長が、しわがれた、しかし腹の底から絞り出すような声で言った。
そして、彼だけではなかった。
ナマズ漁の網を持った男たち。
洗濯棒を持った女たち。
村の人々が、続々とキッチンカーの前に立ちはだかり、黒い馬車と私たちの間に「人の壁」を作ったのだ。
「誰の許可だと……? はんっ、笑わせるな!」
「俺たちは、この子らのおかげで生き延びたんだ!」
「ハルちゃんの店は、村の宝だ! 指一本触れさせてたまるかぁッ!」
その光景を見て、私の目から涙が溢れ出した。
かつて、「呪い」だと恐れて私を遠ざけていた彼らが。
守られるだけだった彼らが。
今、命がけで私を、私たちの店を守ろうとしてくれている。
グルマン代官の顔が、怒りで赤黒く染まっていく。
「き、貴様ら……! 反逆する気か!? ただで済むと思っているのかッ!」
一触即発。 春の穏やかな空気は消え失せ、村は再び、生き残りをかけた「戦場」と化した。
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