あの人に食べさせたかった
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。 温かい応援のおかげで、頑張れています。どうぞお楽しみください!
広場は、かつてない熱気に包まれていた。
日が落ちてあたりは薄暗くなっていたが、かまどの火と、村人たちの笑顔が、この場所を昼間のように明るく照らしていた。
「おかわりだ! もっとくれ!」
「こっちにも酒を回してくれ! ……えっ、ない? 水でいいから!」
「美味い、美味いなぁ……!」
あちこちで歓声が上がり、咀嚼音が響く。
みんな、顔中をタレと脂でベトベトにしながら、夢中で『冥府の使い』に食らいついている。
その光景は、数時間前まで「呪い」だの「祟り」だのと怯えていたのが嘘のようだった。
私は焼き台の前で、絶え間なく手を動かしていた。
串を返し、タレにくぐらせ、団扇で扇ぐ。
煙が目に染みるが、それ以上に、みんなの「美味しい」という声が心に染みた。
その時だ。
行列の最後尾に、一人の老婆が遠慮がちに立っているのが見えた。
「……あ」
私は手を止めた。
隣の家に住む、マーサ婆さんだ。
腰が直角に曲がり、継ぎ接ぎだらけの服を着た、村で一番貧しい独り身の老婆。
私は思い出す。数日前、まだ私が覚醒する前。
マリーがお腹を空かせて泣いていた時、このお婆さんが、庭に生えていた雑草(食べられる野草)を、震える手で分けてくれたことを。
『すまないねぇ、ハルちゃん。今はこれくらいしかなくて……』
自分だって食べるものがないのに。
あの時の、申し訳無さそうな、でも温かい手の温もりを、私は忘れていない。
「お婆ちゃん!」
私は焼き上がったばかりの、一番大きくて脂の乗った串(特上の中の特上だ)を皿に乗せ、焼き場を飛び出した。
「来てくれたんだね。さあ、食べて」
「ハ、ハルちゃん……」
老婆は驚いて、しわくちゃの手を振った。
「いいのかい? わしみたいな、先の短い婆が……。若い衆がいっぱい並んでるのに」
「何言ってるの。お婆ちゃんは命の恩人じゃない。……あの草がなかったら、マリーは倒れてたかもしれない」
私は無理やり、その温かい皿を老婆の手に押し付けた。
「これはお礼。遠慮なんていらないから、冷めないうちに食べて」
「……ああ、すまないねぇ。ありがとう、ありがとう……」
老婆は涙ぐみながら、大事そうに皿を抱えた。
そして、近くの大きな石に腰を下ろす。
周りの喧騒から少し離れた場所。
老婆は震える手で、黄金色に輝く蒲焼を見つめていた。
タレの焦げた匂いと、山椒の爽やかな香り。
湯気が、老婆の顔を優しく撫でる。
「……いただきます」
老婆は、歯のほとんどない口で、ふっくらとした身を齧った。
ハムッ。
咀嚼はいらなかっただろう。
湯引きと蒸しで仕上げたその身は、舌の上に乗せただけで雪のように解ける。
濃厚な脂の甘みと、醤油タレの塩気。
それが、干からびた体に染み込んでいく。
老婆の動きが止まった。
ゆっくりと、ゆっくりと味わい、そしてゴクリと飲み込む。
次の瞬間。
老婆の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「…………うっ、うぅ……」
それは、「美味しい」という感動の涙ではなかった。
もっと重く、悲痛な、後悔の混じった嗚咽だった。
「お婆ちゃん? どうしたの? 辛かった?」
私が慌てて駆け寄ると、老婆は首を横に振った。
そして、空に向かって独り言のように呟いた。
「……爺さんや」
その声は震えていた。
「こんなに……こんなに、柔らかいんじゃねぇか」
老婆は、食べかけの串を握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。
「去年の冬に死んだ、うちの爺さんな……。最後は歯が抜けて、硬いパンも噛めなくなって……。泥水みたいなスープしか飲めなくて、ガリガリに痩せて死んじまったんだ」
私は息を呑んだ。
この村では珍しくない話だ。冬を越せずに亡くなる老人や子供は多い。
「わしらは、この沼の主を『化け物』だと恐れてた。……食べるものがない時も、すぐそこに、こんなご馳走があったのに……『毒だ』『祟りだ』って、見向きもしなかった」
老婆は、悔しそうに自分の膝を叩いた。
「もし……もし、この料理を知っていれば。ハルちゃんみたいに、これを美味しくする方法を知っていれば……」
老婆が顔を上げ、私を見た。
その目は、深い悲しみと、そして感謝の色で濡れていた。
「爺さんに、食わせてやりたかったなぁ……!!」
その叫びが、私の胸を突き刺した。
「美味い」という言葉よりも重い、「食わせてやりたかった」という懺悔。
すぐ隣にある「命」に気づかず、常識と恐怖に縛られて、大切な人を餓死させてしまった。
その無念さは、どれほどのものだろう。
この蒲焼のあまりの美味しさが、逆に彼女に残酷な「もしも」を突きつけてしまったのだ。
「……ううっ、うううぅ……」
老婆は子供のように泣きじゃくった。
周りの村人たちも、その声に気づき、静まり返った。
誰もが思い当たることがあるのだ。
あの時、これがあれば。
あの家族を、あの友人を、救えたかもしれないのに、と。
楽しい宴の場に、冷や水のような現実が突きつけられる。
アレクも、焼き場の隅で唇を噛み締めていた。
私たちは「無知」だった。
無知は罪ではないかもしれないが、時に人を殺す。
私は老婆の背中に手を回し、優しくさすった。
かける言葉が見つからない。
「仕方なかった」なんて慰めは、今の彼女には届かない。
だから私は、料理人としてできることをした。
「……お婆ちゃん。お爺さんの分も、食べて」
私は言った。
「お爺さんはもう食べられないけど、お婆ちゃんが食べて『美味い』って思えば、きっと届くよ。……だから、泣かないで。冷めちゃうから」
老婆は何度も頷き、涙を袖で拭った。
そして、再び串を口に運んだ。
今度は、噛み締めるように。亡き夫と共に味わうように。
「……うん。うん……。美味いよ、爺さん。……本当に、極楽の味だよ」
老婆が完食し、空になった皿を見た時、広場の空気が変わった。
悲しみだけではない。
「生きている自分たちが、今こうして食べられること」への、強烈な感謝と執着。
「俺たちも食おう! 死んだやつの分まで!」
「そうだ! 残したらバチが当たるぞ!」
「ハルちゃん、ありがとう! 本当にありがとう!」
再び、宴の熱気が戻った。
けれど、それはさっきまでの単なる馬鹿騒ぎとは違う。
命を頂くこと。命を繋ぐこと。
その重みを知った者たちの、祈りにも似た食事風景だった。
(……ああ、そうか)
私は、煙の向こうで笑い、泣き、食べている人々を見て思った。
私が作りたかったのは、これだ。ただのカロリーじゃない。
「過去」を供養し、「明日」を生きる力を与える料理。
ふと横を見ると、アレクが真剣な眼差しで私を見ていた。
彼は私の手元にあるタレの鍋を指差し、ボソリと言った。
「ハル。お前の料理は……商売道具以上の『魔法』だな」
「……買いかぶりすぎですよ」
「いいや。この光景を見ろよ」
アレクは、泣きながら笑って食事をする老婆や、それを見守る村人たちを示した。
「金貨を積んでも買えないもんが、ここにある。……俺は今日、商人として一番大事なことを教わった気がするぜ」
彼の目には、いつもの計算高い光はなく、もっと熱い決意のようなものが宿っていた。
宴は夜遅くまで続いた。 用意したナマズは、骨の髄までしゃぶり尽くされ、一滴のタレも残らなかった。
その夜。
村のあちこちで、すすり泣く声と、それ以上に大きな笑い声が聞こえたという。
それは、長く閉ざされていた「ノワ村」の夜明けを告げる産声のようだった。
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
今後の励みになりますのでもし「面白かった」「続きが読みたい」と思っていただけたら、 ページ下の【☆☆☆☆☆】からポイントを入れて応援してもらえると嬉しいです。
ブックマーク登録も、執筆の励みになります。 よろしくお願いします!




