第1部・ノワ村の雪解け編:優しい嘘
数ある作品の中から、この作品をお選びくださり、ありがとうございます。中編小説として書き始めました。
最後までどうぞお楽しみください!
北の果てにある、雪深いシルヴァリア王国。
その国境付近、山あいにへばりつくように存在する「ノワ村」に、一年で最も残酷な季節が訪れていた。
早春。
それは、冬の終わりを告げる希望の季節ではない。
根雪が溶けて道は泥の沼となり、商人たちはまだこの村へは足を伸ばさない。
そして何より、長く厳しい冬を越すために蓄えていた保存食が、どこの家でも底をつく時期だ。
いわゆる「端境期」。新しい作物はまだ芽吹かず、狩ろうにも獲物は痩せ細っている。
村全体が、静かな飢餓に覆われる季節だった。
「……うう、寒い」
隙間風の吹き荒れるボロ家の中で、私――ハルは、かじかむ指をさすって小さく身震いをした。
一四歳になる私の体は、年齢のわりにやせっぽちで、薄い胸板は寒さを防ぐ役には立たない。
けれど、寒さよりも辛いのは、お腹の底に居座る鉛のような重みだ。
空腹。
それはもう痛みと言ってもいい。昨日から、口にしたのはお湯だけだった。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
ふいに、私の袖をクイクイと引く感触があった。
振り向くと、妹のマリーが心配そうに私を見上げている。
今年で五歳になるマリー。私の、たった一人の家族だ。
二年前に両親が流行り病で亡くなってから、私たちは二人きりでこのあばら家で肩を寄せ合って過ごしてきた。
「平気だよ、マリー。ちょっと風が冷たいだけ」
私は精一杯の笑顔を作って、マリーの頭を撫でた。
柔らかい金色の髪。けれど、その手触りは少しパサついている。
マリーも限界なのだ。頬はこけ、目ばかりが大きく見える。継ぎ接ぎだらけの服から覗く手首は、折れてしまいそうなほど細かった。
(ごめんね、マリー。私にもっと力があれば……)
胸が締め付けられる。村のみんなも自分の生活で手一杯で、これ以上頼ることはできない。
部屋の隅には、私が今日、雪を掘り返して採ってきた野生の芋が山積みになっている。
この時期、唯一手に入る食材だ。
けれど、テーブルの上の皿に乗っているのは、たった一つずつ。
中に入っているのは、泥色に濁ったお湯と、ゴツゴツした黒い塊。村人たちが『オークの足指』と呼んで忌み嫌う芋だ。
見た目が魔物の指に似ているから、そう呼ばれている。
味は最悪だ。煮ても焼いてもゴムのように硬く、何より舌が痺れるような強烈な「エグみ」がある。
半日以上水に晒してアクを抜き、さらに長時間煮込まないと、腹痛を起こして吐いてしまうのだ。
今の私たちには、十分に煮込む薪も、アクを抜くための綺麗な水も足りない。
だから、体への負担を考えると、一日一個食べるのが限界だった。
山積みになっているのに、食べられない。
普段なら家畜ですら見向きもしない雑草の根っこ。
でも今は、この毒々しい塊が、私たちに残された唯一の命綱だった。
「さあ、食べようか。よく噛んでね」
「うん。いただきます」
二人で手を合わせる。
私は欠けたスプーンで『足指』を掬い、口に運んだ。
……苦い。
口の中に広がる泥臭さと、舌を刺すような刺激。飲み込むと、喉が拒絶反応を起こしそうになる。
それでも、胃袋に入れるしかない。
ふと、向かいのマリーの手が止まっていることに気づいた。
マリーはスプーンを持ったまま、自分の皿の『足指』をじっと見つめている。
やっぱり、こんな不味いもの、五歳の子供は食べたくないだろうか。
「マリー? やっぱり食べられない? 無理しなくていいよ、スープだけ飲んで……」
私が言いかけた、その時だった。
マリーは首を横に振ると、ニコリと笑った。
栄養失調で蒼白な顔なのに、その笑顔だけは、教会の聖女様よりもずっと気高く、優しかった。
彼女はスプーンで自分の分の『足指』を掬い上げると、それを私の皿に入れたのだ。
チャポン、と泥色のスープが跳ねた。
「マリー……?」
「お姉ちゃん」
マリーは、私の目をまっすぐに見て言った。
「私はもうお腹いっぱい。だからこれ、食べて」
時が、止まったようだった。
お腹いっぱい?
そんなわけがない。マリーだって、昨日から何も食べていないのだ。
私よりも小さな体で、私よりもずっとお腹を空かせているはずなのに。
この子は、私が今にも倒れそうだから……自分の命を削って、私に譲ろうとしているんだ。
涙が溢れそうになるのを、必死でこらえた。
ここで泣いたら、マリーの優しさを否定してしまう。
私は震える声で、「ありがとう」と言おうとした。
――グゥゥゥ。
その時。静かな部屋に、小さく、けれどはっきりとした音が響いた。
それは、マリーの小さなお腹の虫の音だった。
マリーはハッとして、顔を真っ赤にしてお腹を押さえた。
「あ……えへへ」
恥ずかしそうに笑ってごまかす妹。
その瞬間。
こらえきれなくなった涙が溢れた。
同時に私の頭の中で、何かが弾けた。
(――ふざけるな)
それは、マリーに対する怒りではない。
こんな健気な妹に、嘘をつかせる自分への怒り。
そして、こんな泥水のような食事しか用意できない、この世界への絶望。
(――ふざけるな。こんなに可愛い妹を守れないで、何が姉だ)
プツン、と心の中で何かが切れる音がした。 目の前が真っ暗になり、深い闇の底へ落ちていくような感覚。
その時だ。
「――がっ、あ……!?」
突然、脳天を雷で打たれたような衝撃が走った。頭が割れるように痛い。私は反射的に頭を抱え、テーブルに突っ伏した。
「お、お姉ちゃん!? どうしたの!?」
マリーの悲鳴が聞こえるが、答える余裕がない。視界が歪み、私の知らない映像――いや、忘れていた「誰か」の記憶が、奔流のように脳内へなだれ込んでくる。
白い天井。蛍光灯の明かり。ステンレスの調理台。そこは、日本という国の中堅食品メーカーの開発室。
『予算オーバーだ。もっと原価を下げろ』
『でも、これ以上品質を落としたら……』
『工夫しろ。安くて、それでも最高に美味いものを作るのが君の仕事だろ!』
厳しい予算の壁。ありふれた食材。上司からの無茶な要求。そんな制約だらけの中で、たった数円の原価を削るために試作を重ね、それでも味が落ちない魔法のような配合を見つけ出す私。
そうやって生み出した新商品を、お客さまが一口食べた瞬間に綻ばせる笑顔。
――美味い!
その一言を聞くのが、私の生きがいだった。
(う、ぐぅ……あたま、が……!)
記憶の波は止まらない。
湯気の立つ、真っ白な炊きたてのご飯。
疲れた残業帰りに腕によりをかけた、肉汁溢れるハンバーグの弾力。
牡蠣をふんだんに使った鍋の、心まで溶かすような出汁の香り。
今の生活とはかけ離れた「飽食」の記憶が、激しい頭痛とともに私の中で暴れ回る。
「お姉ちゃん! やだ、死なないで! お姉ちゃん!!」
泣き叫ぶ声にはっとする。薄目を開けると、マリーが私の体にすがりつき、ボロボロと涙をこぼしていた。 その小さな手は震え、恐怖で顔を引きつらせている。
「ごめんなさい、私が嘘ついたから……バチが当たったの!? ごめんなさい、ごめんなさい……!」
その必死な謝罪の声を聞いた瞬間、荒れ狂っていた頭痛が、嘘のように引いていった。
後に残ったのは、澄み渡るような静寂と――燃えるような使命感。
(……ああ、そっか)
私は知っている。私には、泥だらけの芋を「宝物」に変える知識がある。
お金がない? 食材が悪い?
そんなの、開発担当時代にはいつものことだったじゃないか。
私はゆっくりと体を起こし、大きく息を吐いた。そして、泣きじゃくるマリーの頬にそっと手を添える。
「……マリー」
「ひっ、ぐ……お、お姉ちゃん……?」
「大丈夫。びっくりさせてごめんね。もう痛くないよ」
親指で涙を拭ってあげると、マリーは安心したのか、へなへなと私の胸に飛び込んできた。
その温もりを抱きしめながら、私は確信する。
今の私なら、この子を救える。
記憶の中にあるあの温かくて、柔らかくて、食べた瞬間に脳が痺れるほど幸せになれる食事を、この手で再現できる。
私はマリーの背中をポンポンと優しく叩きながら、力強く言った。
「マリー。そのスープ、もう飲まなくていいよ」
「え……?」
「お姉ちゃんが、もっと美味しい魔法をかけてあげるから」
私の瞳からは、もう絶望の暗い色は消えていた。
私は立ち上がった。
フラフラだったはずの体に、不思議と力が漲っている。台所の隅に転がっている、泥だらけの『オークの足指』を見る。
さっきまでは「不味い毒芋」にしか見えなかった。
けれど、今の私――「開発担当者」の目には、まったく別のものに見えていた。
(皮が分厚くてゴツゴツしているのは、中の水分とデンプンを守るため。強烈なエグみは、皮と実の間の数ミリに集中しているだけ)
つまり、これはゴミじゃない。
下処理さえ間違えなければ、ホクホクとした甘みを持つ、極上の炭水化物だ。
厚めに皮を剥いて、水に晒してアクを抜き、高温の油で揚げれば……。
(子供が大好きな、最高のオヤツ『フライドポテト』になる!)
問題は、油だ。この家にはもう油なんて一滴もない。
揚げるどころか、炒めることさえできない。
どうする?
この雪解けの閉ざされた村で、どこから調達する?
――ガタンッ!!
思考を巡らせていたその時、家の外で大きな音が響いた。
重い木材が倒れる音と、男の人の悲鳴にも似た叫び声。
「くそっ、やっぱりまだ早すぎたか……車輪が!」
私は窓に駆け寄った。
雪解けで泥沼と化した家の前の道で、一台の荷車が立ち往生していた。
泥に深く沈み込んだ車輪。それを引いていた赤毛の少年が、膝まで泥だらけになって悪戦苦闘している。
荷車の隙間から、生活用品らしきものが見えた。その中には、タプンと揺れる液体が入った木樽もある。 行商人の荷車だ。そしてあの木樽の中身は、十中八九、油か酒!
私の喉がゴクリと鳴った。
千載一遇のチャンス。彼を助ければ、お礼に何かがもらえるかもしれない。
油……あるいは、もっと貴重な塩が手に入るかもしれない。
「マリー、ちょっと待ってて!」
「え、お姉ちゃん!? 外は寒いよ!」
私はマリーの制止も聞かず、寒空の下へと飛び出した。
吹き付ける冷たい風も、泥の冷たさも、もう気にならなかった。今の私を突き動かすのは、ただ一つの強烈な願い。
(待っててね、マリー)
あばら家の扉を蹴破るように開け、私は泥道へと駆け出した。
その「お腹いっぱい」っていう言葉、二度と嘘では言わせない。
本当にお腹いっぱいにして、とびきりの笑顔にしてみせるから!
これが、私と妹、そして泥だらけの行商人との物語の始まりだった。
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