最上階は、空を向いている-間宮響子-
最初に異変に気づいたのは、風では説明できない揺れだった。
深夜二時。
誰もいないはずのマンション最上階で、カーテンが内側へと膨らんだ。次の瞬間、誰かが立っている影が窓に映る。
――それが、すべての始まりだった。
霊能力者・間宮響子が現地を訪れたのは、雨の降る夕方だった。
築二十五年。
三十三階建てのマンション。
問題の部屋は、三十二階の角部屋。
過去十年で、 不穏な出来事がたて続けに起こっていた。
火災による一家死亡事故。 単身者の飛び降り自殺(二件)。 原因不明の転落事故(一件)。
すべてが、この部屋の住人だった。
管理人は、鍵を差し出す手を震わせながら言った。
「……共通点があるんです」
「皆、亡くなる前に……」
「“窓が呼ぶ”と、言っていた」
間宮は無言で頷いた。
エレベーターが三十二階に到着した瞬間、彼女の耳鳴りが始まった。
高い音。 それは、風の音ではない。
笑い声に近い。
部屋に足を踏み入れた瞬間、間宮は悟った。
ここには、霊が“棲んで”いるのではない。
ここは、霊が“上を見上げ続けてきた場所”だ。
窓は、天井まで届く全面ガラス。
曇りも汚れもない。
異様なほど、外がよく見える。
そして――。
こちらも、見られている。
間宮は、ゆっくりと数珠を握った。
「……出てきなさい」
返事はなかった。
だが、窓ガラスに、もう一人の間宮響子が映った。
映像は、わずかに遅れて動く。
「……あなたは、誰?」
鏡像が、口を開いた。
『わたしは――落ちた人たちの視線』
瞬間、視界が反転する。
間宮は“見て”しまった。
火災の日、炎に包まれながら、窓の外に広がる夜景を見つめていた一家。
飛び降りる直前、異様な安心感に包まれた人々。
彼らは恐怖で落ちたのではない。
“呼ばれて”いた。
『上に行けば、苦しみは終わる』
『空に近づけば、あなたは軽くなる』
その囁きが、何十人分も、重なっている。
悪霊は、形を持たなかった。
それは、“高所に立った人間が最後に抱く感情”の集合体。
救われたい。
消えたい。
飛べるかもしれない。
その願望が、この部屋で凝縮されていた。
間宮は、窓へ一歩近づいた。
すると、床がわずかに傾く。
物理的にではない。
意識が、外へ引かれる。
『あなたも、知っているでしょう』
声が、彼女の中から響く。
『救えなかった人たちを』
『落ちていった魂を』
窓ガラスに、過去の相談者たちの顔が浮かぶ。
助けられなかった者。
手遅れだった者。
間宮の足が、自然と窓枠にかかる。
そのとき――。
彼女は、はっきりと理解した。
この悪霊は、人を殺さない。
人が、自分から“空を選ぶ”ように仕向ける。
間宮は、数珠を床に置いた。
「……私は、落ちない」
小さく、だが確かな声で言った。
「私は、ここに立ち続ける」
悪霊が、ざわめく。
『なら、あなたは――』
「地上を選ぶ」
その瞬間、窓ガラスに無数のヒビが走った。
だが割れない。
叫び声が、上から下へと落ちていく。
間宮が部屋を出た時、ひび割れた窓はただの窓に戻っていた。
数日後。
管理会社は、その部屋を永久封鎖した。
だが――。
夜、マンションを見上げると、三十二階の角だけ、なぜか暗闇が濃い。
そして時折、その闇の奥で、誰かが立ち止まり――。
下を見ている。
あなたが、もし高層階の窓辺に立ったとき。
理由もなく、「ここからなら楽だ」と思ったなら。
それは、あなたの考えではない。
あの部屋は、今も空を向いている。
――(完)――




