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崩れる境界、眠れる真実

イリナとカティアは、ナグルアの残した空気を胸に引きずったまま、静かに部屋へと戻っていた。

まだ夕食までには少し間がある。



「せっかくだから、このままでいいわ」



そう言って、カティアは蒼いドレスを脱ぎもせず、窓辺に腰を下ろした。


薄紅から瑠璃色へと溶けていく空の移ろいが、彼女の横顔をいっそう儚く見せていた。

イリナは少し離れた椅子に腰を下ろし、黙ってその背を見つめる。



「……イリナも、気づいたでしょう?」



ぽつりとこぼれたカティアの声は、自らの心の奥底に触れるような静けさをまとっていた。



「ナグルア様。あの人は……ラグナスに、ずっと想いを寄せているのね」



イリナは、わずかに息をのむ。

あの微笑みの奥に、自分と同じ“気づき”を見ていたこと。

それをカティアの口から聞くとは思っていなかった。



「でも、それを直接言葉にせず、ただ“姿を見せる”という形で……ラグナス様の隣にいるわたしを、揺さぶりに来たのだと感じるの」



その声音には、怒りや嫉妬といった棘はなかった。

あったのは納得しようとする、静かで確かな強さだった。



「私、今はこの城に“花嫁”として住んでいるけれど……」



カティアは小さく笑った。だが、それはどこか寂しげで。



「けれど、まだ民には姿を見せていない。

城の外にも出られず、正式な“祝福”もない。

私はこの国にとって、歓迎される存在ではないのかもしれないわね」


言葉の終わりに混じる微笑みは、どこか虚ろで、伏せられたまつげがわずかに震えていた。


イリナは何も言わず、その横顔をじっと見つめ続ける。

けれど、その沈黙は慰めを拒むものではなく、そっと寄り添うためのものだった。


しばしの静寂のあと、カティアがふと顔を上げる。



「でもね、イリナ」



彼女は、淡く、けれど確かに微笑んだ。



「ラグナスの、わたしへの想いは……信じてるの」



その言葉に込められたのは、希望と勇気、そしてほんの少しの怖れ。

それでもなお、前を向こうとする、柔らかく気高い光だった。


イリナの胸に、さざ波のような静かな感情が広がっていく。

カティアの心を支えるその強さは、イリナにはけして手に入らない、ラグナスからの想いだった。




夕食が終わり、夜の帳がゆっくりと城を包み始める。

闇が深まるその頃、カティアは中庭でラグナスと月を眺めながら、静かに言葉を交わしていた。

最近では、それがふたりのささやかな習慣となっていた。



そしてその時間は、イリナにとっても確実に「ひとり」になれる、貴重なひとときでもある。



魔族の国において、ラグナス――魔王のそばにいることは、何よりも安全だ。

だからこそ、イリナはようやく心の奥深くに潜っていくことができた。



ナグルアの来訪。そして彼女の言葉によって、否応なく意識させられた自分の感情。


それがまだ、確かな形になる前でよかった。


そう自分に言い聞かせるように、イリナはゆっくりと目を伏せる。


これは恋ではない。

きっと違う。



まるで物語の登場人物の一人のように、

主人公が恋を叶えていく様子を、そっと見守る者のように――

この気持ちは、二人に向けられた“祝福”なのだと。

そう思うことで、心の輪郭が崩れてしまわないようにしていた。



そしてまもなラグナスに付き添われて、少しだけ頬を赤く染めたカティアが部屋へ戻ってくる。

イリナはその姿を見つけると、心からの笑顔で彼女を迎えた。



――それで、いい。

自分には、選べる道が限られている。



一つは、ラグナスを殺し、そして自分もカティアも魔族に討たれ、

その死によって、長きに渡る平和を手に入れる道。


もう一つは、

カティアの命が尽きるまでのあいだだけでも、彼女の笑顔と、彼女が望んだこの平穏な日々を守り抜くこと。



どちらかしか、ない。



イリナは、そっと目を閉じた。

誰にも言えないその決意は、今夜も深く静かに、胸の底で沈黙を守り続けている。




夜がさらに深まり、あたりはしんと静まり返っていた。

城の全てが眠りにつく時間。



窓の外を吹く風さえも、今宵は鳴らない。

いつもなら微かに揺れるカーテンが、まるで時間までも止められたかのように動かない部屋の中で――

イリナは目を閉じることなく、ただ静かに横たわっていた。



その耳は、闇に溶けるような微かな音まで拾い上げようとしている。

けれど――何も聞こえない。



同じ部屋の中、月明かりを淡く透かす天蓋が、彼女とカティアを隔てている。

しかしその距離は、決して“遮断”ではない。

カティアに何かがあれば、即座に反応できるその距離感。



カティアの寝息は静かで、深い。

夢の中でさえ穏やかに過ごしているかのような、安らぎの音。



けれどイリナの胸には、どこか言葉にできない“ざらつき”があった。



(……何かが、違う)



そう思った瞬間には、すでに体が動いていた。

枕元に置いていた短剣に、迷いなく手を伸ばす。

薄い布の中でも刃の冷たさが指先に伝わり、背筋に緊張が走る。



静かに身体を起こし、足音を立てないようベッドから降りる。

床板がきしむことすら警戒しながら、月明かりを縫うようにしてカティアの寝台へと近づいていく。



一歩、一歩。



そして、そっと膝をつく。

天蓋の内側、淡く月に照らされたカティアの寝顔が見えた。



その顔は変わらず、穏やかだった。

それでもなお、イリナの中には、拭いきれない“不安”が残っていた。


異変はない。

だからこそ、不自然なほどの静けさが、皮膚の下を這うようにまとわりついてくる。



(……これは、気のせいじゃない)



あまりに“何もない”ということが、かえって異常なのだ。


イリナは気配を殺しながら、カティアのすぐ傍に身を寄せた。

手には短剣を、心には警戒を――そのまま、影のように身を潜める。



イリナは、そっと目線を上げた。

カティアのベッドの天蓋越しに、窓の外を――夜空に浮かぶはずの月を、見ようとした。



……けれど。



(月が……見えない?)



ほんの一瞬、そんな違和感が脳裏をかすめた、その直後だった。


窓の隙間から、音もなく――霧が流れ込んできた。

薄く、細く、蛇のように空気を裂いて室内に入り込むその動きに、イリナの神経が研ぎ澄まされる。


その霧が、わずかに天蓋を揺らした。



(――来る!)



警戒よりも先に体が動いていた。

窓の鍵が外れるより早く。

霧の先端がカティアの顔に触れるよりも、さらに早く――


イリナはベッドに駆け寄り、カティアの身体を抱き起こす。

そのまま腕に力を込め、迷いなく窓から遠ざけるように後退する。

音を立てぬよう床を蹴り、すぐさま視線だけで窓を捉える。


開いた窓の向こうから、さらに濃い霧が、室内へと押し寄せてきた。


そして、霧の中から姿を現したのは、昼間ナグルアとともにこの城を訪れていた、あの従者の男だった。



その身に纏うのは、あのときと変わらぬ無害そうな気配。

けれど目が、違った。


あの時、ほんの一瞬交わした視線。

その奥にかすかに宿っていた禍々しさが、今や隠されることなく剥き出しとなり、ねじれ、歪み、赤く光っていた。


まるで月の代わりに、闇の底から這い出してきた何かのように――

その男は、霧とともに、イリナたちの部屋へと立ち現れた。



イリナはカティアを抱きかかえたまま、目の前の“存在”から視線を逸らさず、後ろ手に部屋の扉を探った。

手探りで冷たい取っ手に触れるが――回らない。

扉は、まるで初めから開かない造りだったかのように、びくとも動かなかった。



「動きはいいけど……残念だね」



ぞわりと、声が背後から這い寄る。


思わず振り向くと、視線の先――

そこには、別の窓から侵入したままの姿勢でこちらを見下ろす“彼”がいた。



(……嘘、今……目の前にいたはず……)



視線を戻す。

だが、そこには誰もいない。

霧だけが、ゆっくりと床を這い、天井へと昇っていく。


混乱が脳を揺らし、足がすくむ。

イリナは無意識のうちに、腕の中のカティアを強く抱きしめた。


そのとき――

異変に気づく。



「……起きない……」



耳を寄せても、ぬくもりはあるのに、息遣いが感じられない。

いつもなら、少し触れれば目を覚ますはずのカティアが、まるで深い眠りに沈んだまま。



「何をした……!?」



イリナの声が震える。


男は、楽しげに笑った。

その声は壁に反響することもなく、なのに部屋全体を支配するように大きく響く。



「ここはもう、僕の霧が支配している。

君の目に映るものに、真実はない」



その言葉が終わった瞬間、イリナの腕に、ぞくりとした違和感が走った。



(え……?)



ゆっくりと、見下ろす。

その腕にあるのは――カティアではなかった。


薄い布地の感触。

重さも温度も、彼女のものではない。


それは、ベッドに置かれていたはずの、ただの“枕”。



(そんな、ばかな――)



本物のカティアは、ベッドの上に静かに眠っていた。

そこから微動だにしていない。



イリナの中で、現実と錯覚の境界が崩れていく。



目の前の霧が、何もかもを覆い隠し、ゆっくりと、じわじわと、彼女の心の輪郭までも侵食していくようだった。




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