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揺れる夕影

イリナは元々、カティアと面識があったわけではない。

その名を知っていたのは、“聖女様”という遠い存在として。

ただそれだけだった。



だが、この城に共に来てからの日々。

付き人という立場で仕えるうちに、イリナは次第に「カティアという人そのもの」を知るようになった。

異国の地で、それでもなお安らぎを見つけ、小さな幸せを大切に生きる彼女の姿を。


それを傍らで見つめる日々は、イリナにとっても確かに温かいものだった。



いつしか、カティアとラグナスの間に流れる空気が、少しずつ親密さを増していくのも、どこか微笑ましく感じるようになっていた。


その感情に、嘘はない。

本当にそう思っていたはずだった。



けれど今、目の前でナグルアが語る言葉。

その節々に滲む、嫉妬とも悔しさともつかぬ感情のかけらに、イリナは自分の心の中に、静かに芽生えていた“影”を見つけてしまった。



(……そんな、はず、ない)



胸の奥でさざめく波紋を、静かに打ち消すように心の中で否定する。

表情には出さず、穏やかな顔を装いながら。



――自分は、ただカティア様を大切に思っていた。

ただ、あの人の笑顔が続くことを願っていた。



けれど。




イリナはふと、過去の自分を思い出す。

孤児として生まれ、誰かに選ばれることを願いながら、それでもずっと一人だった幼い頃。

身分も立場も違う、けれどカティアの持つ“孤独”に、無意識のうちに自分を重ねていたのだ。



それが今、少しずつ変わっていく。

カティアはもう、一人ではない。

誰かに選ばれ、見つめられ、愛される存在になりつつある。



(わたしは……それを、喜んでいたはずだった)



小さく、胸の奥に疼く痛み。

それが何なのか、イリナはまだはっきりと言葉にはできない。


ただ、ナグルアの言葉を通して“違和感”は確かに形を持ち始めていた。



何度か移り変わった会話の節目。

給仕が新たな紅茶を盆に載せて部屋に入ってきた時、

ナグルアは手を軽く上げてそれを制した。



「……もう結構。そろそろ帰るわ」



まるでこの訪問が、最初からそれほど長居するつもりなどなかったかのように。

その言葉は、空気を切るようにあっさりと場に置かれた。



イリナはその動きに、ふと意識を引き戻される。



後ろに控えていた付き人がすっと歩み寄り、ナグルアの背に手を添えるように支える。

彼女は滑らかな動作で立ち上がり、その身に纏う黒紅の布が静かに揺れた。



あまりにも唐突で、そして何事もなかったかのような口調に――

ラグナスも、わずかに眉を上げる。



「もういいのか?」


「ええ。どうせ――短い間ですもの」



どこか、言葉の奥にひっかかりを残すような響きだった。

まるでそれが“訪問の時間”のことではなく、

もっと別の何かを指しているような。



ラグナスはそれ以上何も言わず、椅子から立ち上がる。



ナグルアは、ちらりとイリナへ視線を向けた。

その目は、まるで心の奥まで見透かすように、静かに細められた。



「……よそ見をしないことね」



たったそれだけの言葉。

けれど、イリナは胸の奥で何かを突かれたような気がした。




この来客のあいだ、幾度となく自分の思考は外へ逸れていた。

ナグルアの言葉は、明らかに“誰か”に向けられたものではなかったはずなのに、イリナにはまるで自分を咎めるように響いた。



(……いけない)



ほんのわずかな恥ずかしさと、反省が胸に灯る。


ナグルアが扉の前に立つと、

ラグナスとカティアもその後に続く。


応接室の扉が開かれ、

一行の姿は徐々に廊下へと溶けていった。



その背を見送るイリナの胸に残ったのは、

どこか言いようのない、名残のような、不穏のような、薄い靄。



ナグルアという存在がこの場に残していった“何か”は、

紅茶の香りとともに、静かに、部屋の中に漂い続けていた。




ナグルアがこの城にいた時間は、驚くほど短かった。

だがその刹那のような訪問の中に、まるで濃密な霧が立ちこめたかのような疲労感だけが、城に色濃く残された。


“先代魔王の娘”。

そして、“ラグナスに反感を持つ魔族たちの象徴”。


そう聞いていた彼女に対して、イリナはそれほど“恐ろしい”という印象は受けなかった。



むしろその存在が放つのは、強さと、妖しさと、冷たさ。

だが何よりも、それを圧倒する“余裕”だった。




「ラグナス様とナグルア様は……古くからのお知り合いなのですね」



応接の場を離れたあと、使用人たちがいる前だからか、

カティアは少し硬い口調で、ラグナスへとそう問いかけた。


――問いかける、というよりは。

答えを求めない、どこか“含み”のある投げかけ。



イリナは、その響きにふと気づく。




(……カティア様も)




ナグルアに対して抱いた、あの“言葉にしづらい感情”。

それは、イリナだけのものではなかったのだと、胸の内で確信する。


“自分ではない、誰かの過去に触れること”。

そこに生まれる、ささやかなざらつき。



まだ夜には早い、夕暮れの時間。


どちらの色にも染まりきらない空は、

この場にいる誰もの心を、ゆっくりと照らしていた。


その微かな光の下で揺れるのは、

過去、現在、そして、これからの想い。


語られぬ感情だけが、長く尾を引いて。

静かに、空気の中に、滲んでいた。


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