来訪者は毒を纏い
ラグナスが“来客”の話を告げてからというもの、城内は急速にざわめき始めた。
普段は静まり返った広い廊下に、足音と衣擦れの音が交錯する。
整備の行き届いた城とはいえ、もともと使用人の数は必要最低限。
長らく外部との接触を断っていた今、来訪者を迎える準備など、誰も予期してはいなかった。
昼の陽が石の床に斜めの光を落とす中、慌ただしく走る影が次々と交差してゆく。
イリナも何か手伝えないかと、メアに声をかけた。
「カティア様のご支度をお願いできますか。……おそらく、あの方はカティア様の“姿”を見に来られるのです」
メアが何気なく口にした言葉に、イリナの眉がわずかに寄る。
“会いに”来るのではなく、“見に”来る。
その一言に込められた、来訪者、先代魔王の娘という存在の傲慢さが、輪郭を帯びて滲み出していた。
イリナはうなずき、静かにカティアの私室へ向かった。
衣装棚から選び出したのは、ラグナスから贈られた蒼いドレス。
深く、落ち着いた青。その布地は揺れる風を思わせ、どこか品と儚さを同時に宿している。
「カティア様、こちらを……お召しください」
少し緊張した面持ちのカティアが、そっとうなずく。
イリナは淡く微笑み、手際よく支度を整え始めた。
ドレスの裾を整え、繊細な髪を櫛でとき、そっと飾りを添える。
いつもより少し時間をかけて仕上げるその手元には、どこか丁寧すぎるほどの慎重さがあった。
カティアが椅子から立ち上がり、全身を鏡に映す。
その姿に、イリナは思わず息をのむ。
(美しい……)
言葉には出さずとも、心の奥でそう呟いていた。
淡い光に包まれたカティアの横顔。緊張を湛えながらも毅然と立つ姿は、誰よりも強く、そしてどこまでも繊細だった。
自分はこの人を守るためにここにいる。
その想いが、不意に胸の奥で確かに疼く。
「……とても、お似合いです、カティア様」
心を込めてそう告げると、カティアは恥じらうように微笑んだ。
「ありがとう、イリナ」
その笑みはどこか幼く、けれど確かに女としての気高さを湛えていた。
と――廊下の方から、城の門を知らせる鐘の音が、遠く低く響いてくる。
来訪者の到着を告げる音。
二人は目を合わせ、言葉少なにうなずいた。
やがてイリナが先に立ち、カティアとともに応接室へと向かう。
廊下の静けさが、嵐の前のそれのように、どこか不穏な緊張を帯びていた。
応接室の扉を開けたイリナとカティアが中へ入ると、すでにラグナスが待っていた。
椅子から立ち上がり、カティアの姿を目にした彼は、わずかに目を細める。
「――それを、選んだのか、……よく似合っている」
短く、だが確かに込められた言葉に、カティアは頬を染め、イリナは胸の奥で何かがほどけるような感情を抱いていた。
だが――その温かな空気を裂くように。
応接室の外、石床を叩く冷たい足音が響く。
カツ、カツ、カツ――
軽やかにして、どこか硬質なその響きが近づくにつれ、空気が張り詰めてゆく。
やがて扉が静かに開かれた。
現れたのは、艶やかな闇をまとう存在。
その女は、まるで毒を秘めた蛇のようだった。
漆黒に紫を差した長い髪は、絹のようになめらかに揺れ、見る者の視線を否応なく惹きつける。
肌は白磁を思わせるほど透き通り、そこに浮かぶ鱗の光沢が、異種の美を際立たせていた。
首筋から鎖骨、手首にかけて黒い鱗が艶やかにきらめき、それが“装飾”ではなく“生”の証であることを告げている。
瞳は金と翠が溶け合う。
縦に細く割れた瞳孔が、蛇そのものの冷たさと神秘を宿していた。
身にまとう衣装は、露出は控えめでありながら、黒と紅の滑らかな布がその細くしなやかな身体に密やかに絡む。
まるで毒を包み込んだ宝石のように、その姿は艶やかで、同時に危うさをはらんでいた。
歩みは静かで、蛇のように流麗。
笑みを浮かべる口元から、ふと覗く舌先は――赤く、そして二股に裂けていた。
その存在は、カティアの清らかさとは正反対の輝きを放っていた。
清廉な光に対する、妖艶な闇。
だが、そのどちらも、人の目を奪う美しさであることに変わりはない。
「……久しいな、ナグルア」
ラグナスの声は、わずかに硬い。
「そうね、ラグナス。……ずいぶん、優しい顔をするようになったのね」
ナグルアは親しげに笑い、ひと息のあいだをおいて視線をカティアへ向けた。
「はじめまして。人間のお姫様」
その言葉は、あくまで柔らかく、しかしどこかを試すように。
「……はじめまして。お会いできて、光栄です」
カティアは穏やかな声で返す。
その態度に怯えも敵意もない――ただ、相手を真正面から受け止める、静かな強さだけがあった。
カティアは穏やかな声で返す。
その言葉に、怯えも、敵意も、含まれていなかった。
ただ――目の前の相手を真っすぐに見据え、受け止める、静かな強さだけがあった。
イリナは、その横顔を見つめながら、心の中でつぶやく。
(……やはり、カティア様は強いお方だ)
それは剣でも魔法でもない、“在り方”としての強さ。
何者にも屈せず、穢れに染まらない、凛とした清らかさ。
だが、そのすぐ隣。
ゆるやかな微笑を浮かべているはずのナグルアの瞳は、どこまでも冷たく、笑ってはいなかった。
まるで、透明な毒をその瞳に溶かしたように。
その視線は、挨拶を交わしたばかりの“姫”を測り、値踏みするように、静かに、確実にカティアの芯を見つめていた。
ラグナスに促され、ナグルアはゆるやかにソファへと腰を下ろす。
まるでこの場を支配しているかのような動き。
その向かいにラグナスとカティアが並び、イリナはその一歩後ろ、付き人として控えていた。
室内に穏やかな空気が流れる中、ふとイリナは視線を上げる。
ナグルアの背後――そこに、自分と同じような立ち位置の存在があった。
柔らかく波打つ、淡い灰色の髪。
眠たげな薄紫の瞳。
細身で中性的な体格に、控えめな所作。
一見すれば、どこにでもいる気の良さそうな侍従――そんな印象を与える青年だった。
その佇まいにはどこか退屈げな気配もあり、
(きっと、あのナグルアという主に振り回されているのだろう)
イリナはそんな風に、軽く目を向けた。
――その、瞬間。
交わった瞳と瞳。
眠たげに揺れる薄紫の瞳が、こちらを見返す。
ただそれだけで、背筋を冷たい何かが撫でていった。
ゾクリ、と、肌の奥に粟立つような感覚。
胸の奥が、わずかに警鐘を鳴らした。
理由は分からない。
言葉にもできない。
だが、ひとつだけはっきりしていた。
――あの男は、ただの侍従ではない。
イリナが一度、瞬きを落とすと――
その不快な気配は跡形もなく消えていた。
(……気のせいよ)
そう言い聞かせ、イリナはふたたび意識を前へと戻した。
だが、どこかに薄い膜のような違和感だけが、確かに残っていた。
意識をカティアたちへ戻すと、ちょうどナグルアが古い話を語っていた。
どこか懐かしむような口調で、魔族同士の会議の混乱や、過去の戦のことを淡々と話す。
それにラグナスはごく自然に、ときに笑みすら浮かべながら相槌を打っていた。
カティアは微笑みを絶やさず、その会話に耳を傾けている。
だが、イリナには違和感があった。
言葉の端々、話の流れ。
どれもこれも“カティアが入り込めないように”編まれているように感じられたのだ。
まるで、彼女をやんわりと蚊帳の外へと置いていくかのように。
微笑みの下に潜む意図――そのやり口の巧妙さに、イリナは静かに息をつく。
(……この女は、ラグナスのことを好いているのか)
ふと、そんな確信が胸に落ちた。
ナグルアとラグナス。
人間よりもはるかに長く、幾世代もの時を共に過ごしてきたであろう二人。
その間柄に、ある日突然現れたのは――“人間の花嫁”。
それを選んだのは、他でもない。
魔王、ラグナス自身だった。
(……もし、わたしの考えが正しいのなら、ナグルアに同情すべきなのは――むしろ、こちらなのかもしれない)
ほんの少しだけ胸が疼いたその瞬間、イリナは気づく。
それはナグルアに対する警戒心でもなければ、カティアの扱いに対する怒りでもない。
もっと静かで、けれど確かに、内側からじわじわと広がるもの。
感情の正体はまだ分からない。
けれど、それは間違いなく――“自分”に対する感覚だった。