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蒼の魔王と短剣の影

この城での生活にも慣れ、カティアとイリナは、城内でそれぞれ一人の時間を持つことが増えていた。



イリナは「付き人」という立場ではあったが、カティア自身がもとより“お姫様”らしい振る舞いや扱いを必要とすることが少なかった。

日常の支度や移動にも付き添いはさほど要らず、自然と、互いに干渉しすぎない関係が出来上がっていた。



その日もイリナは、カティアが読み終えた本を返すため書庫へ足を運んでいた。

ついでに、自分用の本も一冊探しに行くつもりだった。


書庫の扉を閉じ、中ほどの机に本を一度置く。

その背に、静かに気配を感じ――振り向いた。



「……気配を隠したつもりだったが、驚いたな」



そう口にしながらもその声に驚きの色はなかった。

目の前に立っていたのは、魔王ラグナスだった。


カティアとともに何度も対面している相手。

ときに軽く言葉も交わしてはいたが、こうして二人きりで相対するのは、これが初めてだった。



イリナは一拍だけ間を置き、笑顔を形作る。

その裏に警戒心をひそませながら、いつもの調子で口を開く。



「カティア様でしたら、お部屋にいらっしゃいますよ」



だがラグナスは首を横に振り、短く告げた。



「いや。今日は、お前に用がある」



昼下がりの書庫。

高窓から差し込む陽光は柔らかく、静かな空間を淡く照らしていた。


その光の中、魔王ラグナスと向かい合うイリナ。

彼の深い蒼の瞳は、どこまでも静かでありながら、鋭い光を秘めていた。


視線の先にあるのは、確かにイリナ。

だがその眼差しはまるで、彼女の服の下に隠された短剣までも見透かすようだった。



「……最初から気づいていた」



ふいに落とされた低い声。


その意味を、イリナはすぐに悟った。

だが、表情には出さず、いつものように平然と返す。



「……何のことでしょうか?」



だが、問い返す彼女の声は、わずかに乾いていた。

ラグナスの瞳が細められる。



「はぐらかすことが出来ると思ったか」




その瞬間、イリナの腰元、服の内側に縫い込まれていた短剣の鞘を留めていた糸が不意にほどけた。



――カラン



書庫の硬い床に、鋭い音を立てて落ちる小さな短剣。



イリナはわずかに眉を動かし、しかしすぐにその刃を拾い上げる。

そして、ラグナスの前に立ったまま、静かに言葉を紡いだ。



「……ごまかせるとは思っていませんでした」



一瞬の沈黙。



「ですが、それでも……認めるわけにはいかなかったのです」



淡々とした口調の裏にあるのは、敗北の自覚だった。



イリナは暗殺者。

気づかれることなく、相手の命を奪う――それが彼女の仕事だった。


だが、それに先んじて察知された時点で――勝負は、ついていた。


彼女はそれを、何よりもよく知っていた。



「何度、殺した?」



不意に放たれたラグナスの問いに、イリナのまなざしが揺れた。

彼の言葉の意味が、すぐには掴めない。


そんな彼女の困惑を読み取ったように、ラグナスはさらに言葉を継いだ。



「……私を、君の頭の中で」



その瞬間、イリナの胸の奥に冷たいものが走る。

幾度となく思い描いた“暗殺の手順”。

首筋に短剣を滑らせた想像、毒を盛った紅茶を差し出す幻――

彼は、そのすべてを見透かしていた。


イリナは目を伏せることなく、静かに答えた。



「……もう、何度かわかりません」



率直なその答えに、ラグナスは思わず小さく笑みを漏らした。


その笑顔に、イリナの視線がわずかに引かれる。

昼の光を受けた銀青の髪が、書庫の影の中できらめいていた。

厳しさと理性の奥に、どこか儚げな静けさを抱えた横顔――

それは、王としての風格に満ちていながらも、どこか痛々しいほどに孤独な男の姿だった。



「……ですが、」


イリナは続けた。



「あなたの死と同じ数だけ、カティア様と私も――死にました」



その言葉に、ラグナスの笑みが消える。

書庫の中に、ふたたび沈黙が落ちた。



ラグナスの瞳が細められ、イリナの内面を深く探るように見つめる。



「……私の死が、何につながっているか。君は、理解しているんだな」



それにイリナは何も答えない。

否定も、肯定もせず、ただ真っすぐにラグナスを見返していた。


ラグナスは、わずかに目を伏せると、一歩だけ彼女に近づいて言う。



「……できることなら、その剣は――」



少しの間を置き、彼は穏やかに、しかしはっきりとした声で続けた。



「カティアを守るために、使ってほしい」



その言葉だけを残し、ラグナスは背を向けた。


陽光の中を静かに歩き、音もなく書庫の扉の向こうへと姿を消していく。


残されたイリナの手の中には、落としたはずの短剣。

その重みは、さっきよりもずっと深く――胸の奥に沈んでいた。




それから暫くは、城での日々は変わらず穏やかに流れていった。



カティアとラグナスの距離は、静かに、だが確かに縮まっているように見えた。

互いの名前を自然に呼び合い、ふとした仕草や言葉の端々に、以前とは異なる空気が漂っている。



イリナはそんな二人を見守る立場でありながらも、心の奥底ではなお、ラグナスを何度も殺していた。

その姿を見ては、喉元に短剣を突き立て、紅茶に毒を溶かし、静かに命を絶たせる――

繰り返し描くその想像は、もはや儀式のようだった。



だが、それが現実になるとは、イリナ自身も思っていなかった。

あの書庫で全てを見透かされ、なおラグナスが何一つ対策を講じないことが、何よりも彼の“自信”の現れだった。



そんなある日の昼下がり。



カティアと穏やかな時間を過ごしていた部屋の扉が、控えめにノックされた。

姿を見せたのは、珍しくラグナスだった。



「ラグナス?あなたが直接来るなんて、珍しいわね」



カティアが笑顔で迎えると、ラグナスは軽く頷いて応じる。



「ああ、カティア。……少し急ぎの話があるんだ」



その声には、どこか緊張が混じっていた。

ラグナスの訪問の理由は“来客”についてだった。


これまでカティアとイリナが城に滞在してからというもの、城を出入りする者は極力制限されてきた。

外からの訪問もなるべく避け、静寂の中で守られた平穏が保たれていた。



しかし、それも永遠には続けられない。

限界が来たことを、ラグナスは申し訳なさそうに打ち明けた。



「……あまりこちらも波風を立てたくない相手でね」



曇った表情のまま、彼は小さくため息をついた。


カティアは不安げに眉を寄せる。



「どのような方が?」



ラグナスは一瞬、目を伏せてから口を開く。



「――先代の魔王の娘だ。私にとっては、あまり面倒を起こしたくない相手だよ」




その言葉に、カティアは少し表情を強張らせる。


そしてラグナスの視線がふと横にそれ、イリナへと向けられた。

わずかな一瞬だったが、イリナの心にあの時の言葉が蘇る。


『その剣はカティアを守るために使ってほしい』





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