その手に花を、その胸に刃を
そして、魔王の城での生活が始まった。
それは、カティアにとって人生の中でもっとも穏やかな時間だったのかもしれない。
何かの役割を強いられることもなく、
傷つき、命を落としていく兵士たちの姿を見送ることもない。
見知らぬ土地に連れて来られた少女の顔には、
もはや怯えや不安の色はなかった。
“魔王の花嫁”としてこの国に迎えられたカティア。
だが、その扱いはどこか客人のようであり、あるいは魔王の友人と呼ぶ方がふさわしいほどだった。
ラグナスは、カティアのもとを訪れるときも、
中庭へ誘うときも、必ずイリナをその傍らに同席させた。
――それは、彼なりの配慮だった。
カティアの居住区や食事の時間、日々の生活の隅々に至るまで、
魔王ラグナスの細やかな気遣いが感じられた。
イリナが、使用人のメアたちと交わした会話の中で知ったことがある。
本来この城は、もっと多くの魔族が出入りし、
さまざまな容貌と性質を持つ者たちでにぎわっているという。
だが今は、その姿はほとんど見られない。
――なぜか。
それは、魔族と人間の間に結ばれた「一時休戦協定」のせいだった。
この協定を決めたのは、魔王ラグナスの独断。
多くの魔族が反発し、不満を抱いている。
しかし魔族たちは、たとえ王が気に入らぬ判断を下そうとも、魔王を殺すことはできない。
そして協定には、こう明記されている。
「聖女が生きている間のみ、平和が保たれる」
――つまり。
裏を返せば、聖女の命が絶たれれば、その瞬間に休戦は終わるということでもある。
カティアの命こそが、魔族たちを縛る“鎖”となっているのだ。
魔王はそれを理解した上で、カティアを守るために城の出入りを制限し、異なる種族たちの接触を避けていた。
それはただの「城の静けさ」ではなく、
彼女の命を守るための沈黙の防壁だった。
そしてその沈黙の内側で、イリナは静かに己の過去を思い返していた。
これまで彼女が歩んできた、刃と血の世界を。
イリナはこれまで暗殺者として、生きるために金を稼いできた。
その過程で、魔族と対峙したことも幾度かある。
ある者は人間の国に忍び込み、情報を探っていた魔族。
またある者は、殺した直後に魔法が解け、その正体を知った。
彼らは確かに人間とは異なる存在だった。
だが、人間に近い姿をした魔族たちの“命の奪い方”は、決して特別なものではなかった。
血を流せば。
心臓を貫けば。
頭を砕けば。
――誰もが、同じように死んでいった。
では――
今、目の前で穏やかにカティアと語らうこの「魔王」は、どうだろう。
中庭のベンチに並び、風に揺れる花を見つめながら微笑みを交わす二人。
その光景を少し離れた場所から見つめつつ、イリナは静かに思考を巡らせる。
ラグナスの首筋を、さらりと撫でる深い蒼の髪。
その肌のすぐ下に――
服の下に隠している短剣を突き立てたら、どうなるのだろうか。
その刃には、血液の凝固を防ぐ薬剤が塗られている。
人間であろうと、魔族であろうと等しく命を奪うためのものだ。
魔族の中には、自分たちが人間よりも強靭で、長命で、優れた存在だと信じて疑わない者も多い。
だからこそ、イリナのような女の手に握られた小さな短剣が、自分たちの命を奪うなどとは思いもしなかった。
だが、この男にもその“常識”は通じるのだろうか。
人間の少女を怯えさせまいと、言葉を選び、
柔らかな声で語りかけるこの魔王に。
イリナの胸の奥で、冷たい思考がゆっくりと沈んでいく。
――手を汚す覚悟はある。
それでも、目の前のその姿が、なぜか一線を引かせる。
「殺せるはずだ」
そう思うたびに、
「本当にそれが正しいのか」と、心のどこかがささやいてくる。
「私は……魔王になりたかったわけではないんだ」
ラグナスはそう言って、そっと視線を花に落とした。
淡い色の花弁が風に揺れ、静かに揺れる彼の声と重なる。
「前の王は、力で全てを治める男だった。
敵には容赦なく、味方にも厳しく……
だが、それが“王”というものだと、誰もが信じていた。
勇者に討たれても、なお、そのやり方を正しいと思う者は多い」
カティアは黙って、その言葉を聞いていた。
ラグナスの横顔に、かすかな翳りが差していた。
「あの王がいなくなった後――魔族たちは、王座を奪い合った。
力を誇示し、殺し合い、神の声を求めて争い続けた。
けれど私は……傍観することしかできなかった。
誰かを殺して座につくつもりも、望むこともなかったから」
彼の声は、静かだった。
けれど、その奥には長い沈黙の年月が重なっているように思えた。
「なのに、魔族の神は……私を選んだ。
なぜなのか、未だにわからない。
でも、選ばれた以上は拒めなかった。
それが“定め”だと言われれば、受け入れるしかなかった」
そう言って、ラグナスはふと笑みをこぼした。
けれどそれはどこか遠くを見つめるような、やわらかな哀しみのにじむ笑みだった。
「……求められるままに、“魔王”であり続けた。
ただ、それだけなんだ」
季節は、ゆっくりと移ろっていく。
魔王の城での日々は、驚くほど穏やかだった。
中庭の花が咲き揃い、窓辺に射す陽が少しずつ柔らかくなる午後の時間。
カティアとラグナスは、ともに過ごす時間を少しずつ増やしていった。
「この国の花は、本当に面白い形をしていますね」
カティアがそう微笑みながら、ラグナスの手に摘んだ花を差し出す。
淡い色の花弁が風に揺れ、二人の間の距離をそっと縮めた。
ラグナスもまた、そのやわらかな笑みに静かに頷きながら応じる。
彼の表情に浮かぶのは、支配者としての威厳ではなく、ただ一人の男としての素朴な安らぎ。
言葉を重ね、視線を交わし、小さな笑い声が中庭に響く。
その光景を、イリナは少し離れた場所から見守っていた。
カティアの背後に控えるその瞳は、どこか遠くを見ていた。
――この男を殺すには。
イリナの思考は、何度も同じ場所を巡っていた。
ラグナスの首筋に、短剣を走らせる。
防御の魔法が展開される前に、喉を裂き、息を止める。
あるいは――
カティアが差し出す紅茶に、無味無臭の毒を忍ばせる。
それを口にしたラグナスが静かに崩れ落ち、テーブルクロスに血ではなく紅茶を零す姿を想像する。
そのたびに、イリナの手の中の剣は冷たく、現実味を持って脈打っていた。
成功するかはわからない。
魔王といえども不死ではないが、何らかの防御や異能を秘めている可能性もある。
逆に言えば、失敗すれば自分たちの命はない。
いや――
たとえ成功しても、同じことだった。
契約の条件は「聖女が生きている間の平和」。
つまり、ラグナスが死ねば、カティアとイリナもまた、いずれ確実に消される。
それでもイリナは、自分の死に恐れはなかった。
これまでも、自分の命など誰のものでもなかったから。
だが、ラグナスの隣で笑うカティアの姿を見るたびに、
その思考に一つの影が差す。
あの少女は、異国のこの城で、初めて“戦いのない日々”を得たのだ。
命の炎を灯した兵を見送り続け、涙も枯れるほどに祈りを捧げ続けた聖女が、
ようやく一人の人間として息をつく時間を手にした。
その安らぎを、イリナの刃が奪うことになる。
笑っているカティアの顔を見て、
イリナは知らず、手を胸に当てていた。
あたたかい陽射し。
穏やかな午後。
ラグナスとカティアの言葉のやり取り。
そこにイリナは、まるで“日常”という夢を見ているような感覚さえ覚えていた。
成功しても、失敗しても、
――この平和は崩れる。
そう知っているからこそ、イリナは動けなかった。
ただ、沈黙の中で短剣の重みを確かめながら、
今もその手順を、心の奥で静かに繰り返しているのだった。




