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同じ夜の下で

二人がこの城に来て、最初の夜が訪れた。


魔族の国にも、人の国と同じように夜は来るのだと、

イリナは窓辺に立ち、淡い光をたたえる月を静かに見上げながら思う。



その背では、カティアが書庫から借りてきた本をゆっくりと捲っていた。

ページをめくるたび、衣擦れの音だけが部屋の中に響く。



静かな時間が流れていた。

壁に掛けられた時計の針が間もなく天辺を指そうとする頃、イリナはゆっくりと声をかける。



「カティア様。そろそろ、お食事の時間です」


「……わかったわ。行きましょう」



小さく微笑んで、カティアは本を閉じた。


城での生活を案内してくれた魔族の女性、メアが夕食の時間を伝えてくれていた。

それは、カティアが魔王ラグナスと再び顔を合わせる場でもあった。

謁見の間以来、二度目の対面となる。



『カティア様も不安でしょうから、あなたもご一緒に』



そうイリナに告げたメアの言葉に、カティアがふっと安堵の表情を浮かべたことを、イリナは見逃さなかった。


それは、聖女として国の民に尽くしながらも――

最終的には、生け贄のようにこの地へ送り出された少女の、ほんのわずかな本音だったのかもしれない。



孤児として育ったイリナ。

血の繋がりはなくとも「家族」と呼べる者たちを国に残してきた自分とは、また違う形の重さと孤独を抱えるカティア。



その背中には、王族としての使命と、“神の奇跡”を宿す者としての責任が重なっていた。


それでも、ひとりの少女として震える心が、確かにそこにあるのだとイリナは思った。



胸の奥に静かに湧き上がるその感情が、同情なのか、憐れみなのか。

あるいは、もっと名もないものなのか。

自分でもよくわからなかった。


食堂の扉を開けると、中央の円卓には三人分の食事が静かに整えられていた。



その光景に、イリナは思わず立ち止まる。

てっきり自分は付き人として給仕に徹するつもりだった。

それなのに、なぜ自分の席まで用意されているのだろうか。



そんなイリナの戸惑いを見て取ったかのように、案内役のメアが穏やかに声をかける。



「本日は長旅でお疲れでしょうから、イリナ様もご一緒に――と、魔王様より仰せつかっております」


「……私、も?」



思わず口をついた問いに、メアは静かに頷く。


断るべきか、とイリナは一瞬考えた。

本来ならば、身分の差をわきまえて下がるべき場面だったかもしれない。

けれど、先ほどカティアが見せた小さな安堵の表情を思い出す。


迷いの末、イリナはカティアの隣の席へと歩を進め、静かに腰を下ろした。



整えられた器の並ぶ静謐な空間に、ふと――空気が張りつめる。



扉が開き、魔王ラグナスが姿を現したのだ。


カティアはすぐに立ち上がり、イリナもそれに倣う。

揃って礼を取る二人に、ラグナスは低く、けれど優しい声で言葉を返す。



「魔王様。私と共に、イリナをお食事にお招きくださり、ありがとうございます」



丁寧に頭を下げながら、カティアが静かに礼を述べる。


ラグナスはそれに肩の力を抜くような微笑を返し、手を差し出す。



「……あまり、かしこまらなくていい」



そして、二人に席に着くよう促した。



「この魔族の国では、人の国ほど格式や礼儀作法が厳しくはない。

わたしも、人間の姫君を迎えるにあたって色々と学んではみたが、どうにも、覚えられる気がしないのだ」



どこか照れ隠しのような言葉に、場の緊張がわずかにほぐれる。


ラグナスの声音には、威圧の影はなかった。

むしろ、肩肘張らずにいてほしいという誠意が、静かに込められていた。



食事に運ばれてきた料理は、カティアの母国・ルヴィエルでも見慣れたものだった。

肉や魚、野菜の彩りも豊かで、香辛料の香りは控えめ。

魔族の食卓ということで覚悟していたイリナは、その意外な馴染みやすさにわずかに肩の力を抜いた。


とはいえ、こうして整えられた食卓に着くことなど、イリナにとっては滅多にないことだった。

使用人として身につけさせられた礼儀作法を、頭の中で必死に反芻する。

手の添え方、食器の持ち方、背筋の伸ばし方……。

ぎこちなくならぬように気を配るその様子は、外から見れば緊張そのものに映ったのかもしれない。



そんなイリナに、カティアがふっと微笑み、声をかける。



「イリナ、実は……私もこういう場は少し苦手なの。思ったより、緊張してしまっていて」



冗談めかして明るく言うその言葉には、どこか真実味があった。

イリナは思わず、彼女の言葉の奥にある意味を考えてしまう。



聖女としての務めに追われていたカティア。

戦火にさらされた村へ赴き、時には戦場に足を運び、傷ついた人々に手を差し伸べてきた彼女にとって、

こうした王族らしい晩餐の場は、きっと馴染みの薄いものなのだろう。



「……カティア様……」



そう言いかけたイリナだったが、その声は届く前に、別の声にかき消された。


口を開いたのは、ラグナスだった。



「……このようなことを伝えれば、かえって君を怯えさせてしまうかもしれないが」



魔王ラグナスは、探るように言葉を選びながら、カティアに視線を向けた。

その声音には、確かに迷いと躊躇が滲んでいた。


向かいに座るイリナは、その様子を静かに見つめていた。

人の言葉を話し、人の形に近い姿をしていても、ラグナスはやはり“異なる存在”――

魔族の王であり、人間と長く憎しみ合ってきた者たちの頂点に立つ存在。



その彼が今、一人の人間であるカティアに対し、慎重に言葉を紡ぎ、気遣いを見せている。


それは矛盾に満ちた光景だった。

だが、矛盾の中にこそ、真実は宿るのかもしれない。



ラグナスは続ける。



「私はずっと、君を見ていた。

戦地で傷ついた兵たちに、誰よりも心を痛め、手を差し伸べる君の姿を」



その瞳に浮かんだのは、冷酷でも高慢でもない、

まるで遠くの灯を見つめるような、静かな祈りのような色だった。



「君の国のことも、ある程度は把握している。

……他の王族たちが安全な地で守られていた中、君だけが“聖女”として、神託の名のもとに、もっとも辛い役目を背負わされていた」



ラグナスの静かな声が、食堂の空気に染み込むように響く。

その言葉に、イリナははっと息を呑んだ。

――まさに、自分も思っていたことと同じだったからだ。



「それは……君が望んで選んだ道ではなかったはずだ。

けれど、私は……自分と似ている、そう思ってしまった」



ラグナスはゆっくりと息を吐き、天井を仰ぐように視線を宙に上げる。


魔族の王は、魔族の神によって選ばれる存在――

そこには、自らの意志など関係がない。

逃れられぬ運命。背を向けることも、拒むこともできぬ定め。



「……だからこそ、私はずっと考えていた。

この“王”という役目の意味を。

そして、君という“聖女”の存在を」



その声に、ふと沈黙が落ちた。



「カティア様……」



イリナが思わず声をかけたのは、目を伏せたまま固まっていたカティアが、何も言わぬまま震えているのに気づいたからだった。



次の瞬間――



淡い蒼を宿すその瞳から、ぽたりと涙が落ちた。



「……すみません、私……」



自分の涙に気づいたのか、カティアは驚いたようにまばたきをし、かすれた声で謝った。

その姿にイリナは椅子を押し、静かに彼女のもとへ歩み寄る。


しかし、その動きを制するように、ラグナスが低く呟いた。



「……私こそ、すまない。

君を傷つけるようなことを言ってしまったのだとしたら――本意ではなかった」



その言葉に、イリナはラグナスを見つめる。


そこにあったのは、支配する王の顔ではなかった。

ただ一人の、誰かと同じ痛みを抱えた存在。

それは、カティアと向き合おうとする、一人の“孤独な魂”だった。



「……傷ついたわけでも、悲しいわけでもありません」



そう言って、カティアはイリナから差し出されたハンカチで静かに涙をぬぐった。

そして、まっすぐにラグナスを見つめる。



「“同じだ”と……言ってくださったことが、嬉しかったのです」



目元に赤みを残しながらも、カティアは穏やかに微笑んだ。


その微笑みに、イリナの胸がぎゅっと締めつけられる。




見知らぬ土地。

長きに渡って争ってきた異形の王のもとに、嫁がされるという運命。

それを受け入れ、なお誰かの優しさに感謝の涙を流せるこの少女が、

これまでどれほどの重荷と孤独を背負ってきたのか。


イリナは想像するだけで、胸が痛くなった。


おそらく、ラグナスもまたイリナと同じことを、思っていたに違いない。






やがて夕食の時間が終わり、カティアとイリナは静かに部屋へと戻った。


扉を開けた瞬間、ふたりは思わず立ち止まる。


部屋の中央。

テーブルの上に置かれた花瓶に、見事な花が一輪、生けられていた。



それは人間の世界では見かけたことのない、透明な花弁をもつ不思議な花だった。

夜の光を集めて輝くような、淡く青白いその花は――



「……魔王様から、でしょうか」



イリナがつぶやくと、カティアはそっとうなずく。

言葉は交わさずとも、その贈り物の意味は感じ取れていた。


そして――


夜が、静かに更けていく。


カティアが寝台に身を沈めた後も、イリナはしばらく眠れずにいた。


胸の奥を、冷たいものが静かに満たしていく。



(私は……この“使命”を、果たせるのだろうか)



イリナは、目を閉じたまま思考の闇に沈んでいく。


魔王を討てば――

人間の未来に、数百年の平穏が訪れるかもしれない。


それは彼女が夢見たものだ。

この命を懸けてもいいと誓った、願いのすべてだった。


国に残した“家族”にも、きっと笑顔で生きていける未来を与えられる。

そう信じていた。


だが、そのためにカティアの命も奪われることになるだろう。


ラグナスと、カティアと、自分。

そして人類全体の未来。


そのすべてが、ひとつの天秤に載せられている。


その重みに、イリナの心は静かに沈んでいく。


月の光が、遠い。


夜の帳が、彼女の心を深く覆っていた。


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