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聖女を愛した魔王は、私に死を望んだ  作者: 源泉


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その死は誰のために

ラグナスは、じわじわと魔力を吸い上げていく感触を背中に感じながら、無言で独房の壁に身を預けた。

石造りの冷たさが、骨にまで染み込んでくるようだった。

やがてそのまま、膝を折って静かに座り込むと、目の前に立つイリナを見上げ、ゆっくりと胸元へと手を伸ばす。


鎖で繋がれた黒い石を取り出す。

それは魔力を吸収し、蓄えておくための道具だった。


本来なら、戦場での備えとして。

あるいは、大規模な魔術を支えるための補助として――

魔族にとっては貴重な魔力の備蓄手段。


けれど今、それは違う目的で使われていた。


ラグナス自身が、意図的にその石へ魔力を流し続けている。

己の内にある力を削ぎ落とし、肉体と精神の防壁を意図的に弱めるために。


その石には、魔王としての膨大な魔力がすでに封じられていた。

この石を使えば――

ラグナスの身体に再び魔力を満たし、命を繋ぎとめることもできるだろう。


けれどそれは、彼の望む“救い”とは、正反対のものだった。


ラグナスは、石を手にしたまま小さく息をつき、そしてぽつりと口を開いた。


「……私が死んだあと、これを使えば、君たちは人間の国へ戻れるはずだ」


静かな声だった。



「……そう」


イリナは、静かに答えた。


魔王が死ねば、次に狙われるのはカティア。そして彼女を守るイリナ。


「聖女が生きている限り」という条件で保たれてきた、儚い休戦の均衡。

だが、それを不満に思う魔族は少なくない。

この城の中でこそ忠誠を誓っていた者たちでさえ、

主を失ったあとは、従う理由を失うだろう。


ラグナスを殺すということは、カティアの命を終わらせること。

そして、自らの命もまた、その手で閉じるということ。


三つの命を、一度に終わらせる。

イリナは、そう覚悟していた。


だからこそ、ラグナスが差し出した“生き残る手段”

その一言が、ほんのわずかに心を軽くした。

それだけで、刃の重みが少しだけ、変わった気がした。


イリナは、よく馴染んだ短剣を鞘から抜いた。

手に伝わる感触は何度も繰り返された夜と同じはずなのに、

今夜だけは、その感触が、少しだけ遠く感じられた。


ラグナスの瞳に、不意に熱が灯る。


終わりを望むそのまなざし。

その瞬間だけは、イリナを――確かに、見つめていた。

……はずだった。


握り直した短剣を、静かに振るう。


治りかけていた傷を裂き、

赤い血が流れ出す。

血の筋はやがて広がり、床に赤い海を作った。


その中で、深い青の髪と瞳が、静かに浮かぶ。


鮮やかな色の対比に、イリナの視線は自然と奪われた。


やがて、ラグナスの血の気が少しずつ失われていく。


その唇に、イリナは白い花から抽出した毒を含ませる。


無色透明の液体が、濡れた唇に吸い込まれていく。

そして、わずかに開いたその口が、ふいに言葉をこぼした。


「……カティア」


その名を聞いた瞬間

世界が、ひとつ、音を立てて崩れた。


この時間は、ふたりだけのものだったはずだ。

命を終わらせる、静かな儀式。

誰にも触れさせない、密やかな終焉。


けれどそこに、ラグナスが呟いたのはイリナではなかった。

この儀式の外にいる、あの少女の名だった。



ラグナスの視線は、確かにイリナを見つめていた。

けれどそれは、愛ではなく

“終わり”を託す相手としての、選択だったのかもしれない。

彼の心に最後まで残っていたのは、やはりあの光。


イリナの中で、何かが壊れた。

静かに、確かに。

壊れてしまったのは、信念か。覚悟か。

それとも、ずっと奥底に秘めていた、名もなき“想い”だったのか。



最期は、ひと思いに。

それが彼への礼儀であり、自分に課した責任の果たし方だと、イリナは思っていた。

ほんの一瞬前までは。


だが、刃を握る手は止まらなかった。

いや――止めなかった。


終わらせるはずだったその夜。

その瞬間は、いつの間にか遠ざかっていた。


白い肌に沈む赤。

治癒しかけた傷を再び裂き、まだ癒えぬ痛みの上から新たな線を刻む。

血がゆっくりと滲み、静かに流れてゆく様を、イリナは無言で見つめていた。


ラグナスが呟いたカティアの名前。

自分の存在はラグナスの中に存在していないのか。


その答えを探すように、イリナの刃がまた一線、肌を裂く。

探るように。

確かめるように。

まるでその身の奥に、何かしらの証が埋まっているとでも信じるかのように。


ラグナスの呼吸は、もうかすかだった。

浅く、淡い。

命の境界に指先を置くような、頼りなさ。


それでも、まだ生きている。

声も出さず、ただ存在だけをそこに残して。


イリナはその沈黙に問いかける。

刃で、傷で、痛みで。

あなたの中に“私”は残っているのか、と。


死の淵にあるその身に、傷を重ねていく。

だが、返ってくるのは血のぬくもりだけ。

それはまるで、何も答えぬ沈黙そのものだった。


死の淵にあるその身に、イリナはなおも傷を重ねていく。


だが、返ってくるのは、ただ血のぬくもりだけだった。

それは答えのない沈黙。

冷たい拒絶でも、温かな肯定でもなく。

ただ、生の終わりを告げる体温の消失。


その沈黙を破ったのは、扉が軋む音だった。


鉄がきしむ、鈍く湿った音。


イリナの手が止まる。

背筋を撫でる冷気に、わずかに肩が揺れる。


――鍵をかけ忘れていた。


長く誰も訪れることのなかったこの独房。

死を迎えるためだけに使われるこの隔絶の場所で、

イリナは毎夜のように“儀式”を繰り返すうち、鍵をかけるという行為さえ意識の外へと追いやっていた。


そして今、開かれてしまった。


その場にそぐわぬ姿がそこにいた。


揺れる白い長衣。

血の匂いと色に満ちたこの空間に、もっともふさわしくない存在。


――カティアだった。


その眼差しは、開かれた扉の向こうからまっすぐに伸び、

床に倒れるラグナスと、その傍らで短剣を握るイリナへと交互に注がれる。


「な、にを……?」


掠れた声。

息を呑むような震えを帯びた囁きが、宙に落ちる。


視線は何かを探していた。

理解できない現実の中に、納得できる言葉を。


けれどこの場にあるのは、血の海と、沈黙と――

終わりへと向かう静かな狂気。


イリナは、何も説明しなかった。


これが魔王ラグナスの“願い”であり、イリナ自身の罪の贖いのため、密かに託された“使命”であるということを。

それらの言葉は、今や意味を持たなかった。


それよりも、イリナの中で首をもたげたのはひとつの感情だった。

ラグナスが汚したくない、と言っていたその存在。


カティアは本来ならイリナが守るべき、先ほど生きて人間の国へ彼女を戻せると知ったときに安堵した大切な存在のはずだった。

しかしイリナは短剣を、カティアの手に握らせる。


それは「渡す」というよりも、

“重ねる”ように。

“導く”ように。

イリナの掌ごと包むようにして、カティアの細い指に冷たい刃の柄を握らせた。


何も知らないはずのその手が、今――

命を奪う道具を握っている。


そして、イリナはカティアの手を離さずに、そのまま共に歩み出す。

小刻みに震える体は微かに抵抗をするが、それはイリナを止めてはくれない。


床に広がる血の海を踏みしめながら、

白い衣に、じわじわと赤が滲んでいく。


カティアの純白は、汚れていく。

目を見開いたまま、ただ呆然と、イリナに導かれていた。


足も止めない。

声も出さない。

手を振りほどくこともなく――


ただ、震えるまま、イリナとともに歩いていた。


その視線の先、床に座り込むラグナスが、微かに顔を向ける。


血に濡れた睫毛の奥――

ぎりぎりの呼吸の合間から、彼はふたりを見上げていた。


まなざしは、もう定まらない。

けれどその曖昧な光のなかに、確かに“ふたり”が映っていた。


イリナは、一歩、踏み出す。


そしてそのまま、カティアの手を離さず――

短剣を、振り下ろした。


それは、これまでのように、

ラグナスの身体を“探る”ように刻む動きではなかった。


迷いも、逡巡もない。


刃は一直線に――

その心臓を貫いた。


その瞬間、イリナの中に湧き上がったのは、

ラグナスの“最期”に絶望を刻みつけたいという、

衝動にも似た、どうしようもない感情だった。


そしてその衝動に従うように、

自らの手だけでなく、

“カティアの手”も巻き込んだ。


震えるその細い指が添えられたまま、

刃は深く、深く、赤の中心を突き刺していた。


――ドクリ。


鈍く、一度だけ。


彼の胸の奥で、確かに最後の鼓動が跳ねた。


それが、すべての“終わり”を告げる音だった。


イリナが、カティアの手とともに握っていた短剣から、そっと手を離す。


それは血の流れに押されるように、重たく傾き、

カシャン――と、乾いた音を立てて床に落ちた。


その音は、不自然なほど静まり返った空間に染み込み、

空気をほんの少しだけ震わせた。


 


カティアは、動かない。


目の前で起きたことを、理解できずにいた。

いや、理解を拒んでいた。


揺れる視界のなか、ラグナスの胸に突き刺さった痕と、

その身体から流れ続ける血の温度が、

否応なく“現実”を突きつけてくる。


喉の奥で何かがつかえたまま、声にならない叫びが漏れる。

それは言葉ではなく、ただの息のような絶望だった。


 


――なぜ、こんなことに。


――どうして、自分の手が。


 


焦点の合わない目で、彼女は手を見る。

その手には、まだラグナスの血が、生々しくこびりついていた。


 


やがて、頭の中に遅れてやってくる“意味”。


自分が愛した人は、目の前で

自分の手を介して、確かに、命を失ったのだと。


 


一歩離れた場所でその光景を見ていたイリナは、

まるで静止した空間に身を置くように、ただ静かに佇んでいた。


かつて焦がれた存在の最期――


だがその終わりに、胸を満たすような達成感はなかった。


ラグナスの願いを叶えたという満足も、

その大切な存在であるカティアを、

血と絶望に塗れたこの惨劇に引き込んだという

歪んだ充足すら、そこにはなかった。


 


だから、遅れた。


カティアが、ラグナスの亡骸に顔を寄せ、

静かに、そっと唇を重ねていることに。

最期の口づけを、与えていることに。


イリナの瞳が微かに揺れる。


その行為に、痛みも涙も、なかった。

ただ、静かすぎるほどの愛情が、そこにあった。

 


だが、イリナは知っていた。

その唇が、触れてしまったものの正体を。


 

ラグナスの口に含ませた、

可憐な白い花から採った毒。


魔族にすら効果があるよう濃度を高めたその液体は、

人間にとっては、ほんの一滴で致命となる猛毒。


カティアの唇が触れたのは、

その“死”の名残だった。



それは、無味無臭の優しさを装いながら、

静かに心臓の鼓動を乱し、

徐々に意識を薄れさせていく。


 

カティアの身体が、ふわりと揺れた。


細く震える手が宙に浮き、

そのまま力なく落ちるように

彼女は、ラグナスの胸元へと沈み込んでいく。


赤く染まる布の海に抱かれるように、

静かに重なるふたりの姿は、

どこか儚く、そして残酷なほどに美しかった。


まるで、ひとつの絵画のように。

永遠の静寂を刻む、血と愛の輪郭を描いた芸術。


確かめるまでもなかった。


その小さな胸は、もう動かず、

唇はわずかに開かれたまま、言葉を紡ぐことはない。


 


イリナは、その二人の亡骸をただ見つめていた。


何も言わず、何も感じないままに。

怒りも、悔いも、哀しみも

いまや感情はすべて、鈍い音を立てて沈殿していた。

イリナは、何も感じなかった。

そう思っていた。


けれど胸の奥で、形にならない“疼き”が残っていた。

それが後悔か、あるいは名もなき怒りなのかはわからない。


ただ、ひとつの確信だけがあった。

「あのとき確かに、自分はこの刃を振るったのだ」と。


ミレクトの死を思い出す、彼はイリナにはっきりと愛していると言葉を残した。

ラグナスもカティアを失う恐怖から死を選んだが、その根源にはやはり愛があったのだ。

結果的に死へとつながったカティアからラグナスへの口づけも、愛する者への耐え難い渇望からくるものだった。


イリナには、あの三人のように死を抱きしめるほどの感情が、果たしてあったのだろうか。




そして、ぼんやりとした言葉だけが浮かび上がる。


 

やっと、平和が訪れたのだ。


 


それは、願いだったのか、皮肉だったのか。

それすらも、もうわからなかった。


けれど確かに


イリナの前には、もう争いも、祈りも、恋も、存在しなかった。


ただ静けさだけが、すべてを包み込んでいた。

終わり。



読んでくださった方、ありがとうございます。

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