閉ざされた自由
魔王ラグナスとの謁見を終えた後、カティアとイリナは静かに一室へと案内された。
二人を導いた魔族の案内人は、人間に近い容貌をしていた。
おそらくは二人が怯えないようにという、ささやかな気遣いだったのだろう。
通された部屋の扉が音もなく閉まり、ふたりきりになると、ようやく張り詰めていた空気がほどける。
イリナは心の底から、胸に詰まっていた息を吐き出した。
「……イリナさん、でよかったかしら?」
先に声をかけたのはカティアだった。
魔王のもとへ贈られる数日前――
付き人として同行することを許されたのは一人。
そこに選ばれたのがイリナであった。
そのときに交わしたのは、形式的な挨拶程度。
こうして落ち着いて言葉を交わすのは、今日が初めてだった。
「はい。どうか、イリナとお呼びください」
イリナは静かに頭を下げる。
この日が来るまでに、王女に仕えるための礼儀作法や立ち振る舞い、必要な知識を急ぎ詰め込まれてきた。
そして、城で過ごすうちに、目の前にいる聖女カティアのことも、少しずつ知るようになった。
神託を受けて生まれた、ルヴィエル王国の第三王女。
その身に“奇跡”を宿し、幼いころから数々の不可思議な力で人々を救ってきた。
雨が降らず、民が渇きに苦しんだ年には、カティアが地図の一点を指さした。
すると、その地に清らかな泉が湧いたという。
魔法を学んだこともないその手で、怪我や病を癒し、死にかけた命を引き戻したこともあった。
イリナはその記録を読んだ。
そして今、その“伝説”が目の前にいることを、改めて実感する。
「私一人で来るべきでしたのに……ついてきてくれて、ありがとうございます。イリナ」
柔らかな笑みとともに告げられたその言葉に、イリナはふと、言葉を失いそうになる。
それは聖女ではなく、一人の少女としての、純粋な感謝だった。
イリナは静かに、カティアの着替えを手伝っていた。
薄絹を纏わせ、髪を整え、襟元を正す。
その所作一つひとつが、今のイリナにとっては“付き人”としての役目であり、仮初めの居場所でもあった。
「……あなたを巻き込んでしまったこと、申し訳なく思っているの」
イリナは無言で首を振る。
その想いに応える術が、まだ自分には言葉にできなかった。
ふと、カティアが目を細めて微笑んだ。
「……それでもね、ほんの少しだけ、ワクワクしているの。
国の外に出るなんて、私、初めてのことだから」
その顔には子供のような輝きが宿っていた。
瞳をきらきらと光らせ、まるで新しい世界を夢見る少女のように。
嘘ではないのだろう。
それでも、イリナにはわかっていた。
その言葉の奥にある、隠しきれない哀しみを。
カティアには、兄姉がいる。
皆が幼いころから「留学」という名目で他国へと渡り、国を離れて育っていた。
それは、より安全な土地での教育と保護を目的とした、王族としての“逃がし方”でもあったのだろう。
だが、カティアだけは国を出ることがなかった。
それは偶然ではない。
カティアの持つ“聖女の奇跡”は、国の内にこそ必要とされたからだった。
戦で傷ついた者、疫病に苦しむ者、飢えに喘ぐ者――
そのすべてが、ルヴィエルの聖女を頼り、癒しを求めて集まってきた。
彼女は、決して離れることなど許されない存在だった。
国を支え、民を救い、ただそこに“在る”ことが――彼女の役目だったのだ。
(……ようやく外に出られたというのに、それがこのかたちとは)
イリナは内心で、言葉にできない苦味を噛みしめた。
それでも、自分の顔がどこまでも冷静で、仮面のように整っていることに気づいていた。
「ありがとうございます、イリナ」
カティアは着替えの手伝いをしたことに優しく礼を言い、微笑んだ。
イリナはただ静かに頭を下げ、その微笑みに応じた。
まるで、祈るように。
カティアの着替えが終わり、室内にしばしの静けさが戻った。
しんとした空気の中、窓の外では風がカーテンをやさしく揺らしている。
カティアは椅子に腰を下ろし、手元のカップを両手で包むように持っていた。
その横顔は穏やかに見えたが、どこか夢の中にいるようにも見えた。
――その時。
コン、コン。
扉が控えめに叩かれた。
イリナは素早く立ち上がり、無言で扉に向かう。
扉を開けると、そこにいたのは先ほど部屋へ案内してくれた魔族の女性だった。
人間の女性と変わらぬような風貌。
角も鋭い爪もなく、淡い色の髪に整った衣を纏っている。
その立ち居振る舞いからも、必要以上に威圧感を与えないように配慮されていることが伺えた。
「聖女様」
魔族の女性は丁寧に一礼し、口を開く。
「お城の中をご案内するよう、魔王様より仰せつかっております」
その言葉に、カティアがそっと立ち上がる。
イリナは小さくうなずき、視線だけで彼女の後を促した。
扉の外へと足を踏み出すと、そこには静まり返った城の廊下が広がっていた。
異国の空気。
けれど思いのほか整然とした造りで、どこか荘厳さすら感じさせる。
案内する魔族の後に続きながら、イリナは再び気を引き締める。
これから目にするもの、触れるもの、そのすべてが――“敵”の領域なのだ。
カティアはそんなイリナの心の内を知ってか知らずか、わずかに微笑みながら歩き出した。
その背には、ただの少女のような軽やかさと、
かの地に平和をもたらす“生贄”としての重さが同居していた。
城の内部は、イリナが思っていたよりもずっと整っていた。
天井は高く、壁や柱は丁寧に装飾されており、床には織りの細かい長い絨毯が敷かれている。
人間の国の城と、そう大きな違いは感じられなかった。
――ただひとつ、明らかに異なるのは「灯り」がないということ。
天井から吊るされた燭台にも、壁に設えられたランプにも、炎は灯されていない。
それにもかかわらず、壁も床も、まるでそこに月光が流れ込んでいるかのように淡く光を放っていた。
無機質な石材のはずなのに、どこか呼吸をしているような温もりを感じる。
それが魔族の城なのだと、イリナはひとり静かに認識を改める。
「こちらは、今後お二人がお使いになるであろう部屋のひとつです」
先導していた魔族の女性――名をメアという――が、静かに扉を開ける。
まず案内されたのは、城の一角に設けられた広々とした書庫だった。
高い天井にまで届く書架が壁沿いに並び、無数の本が丁寧に収められている。
人間の文字だけでなく、魔族の文字が刻まれた背表紙も見える。
部屋の中央には読みかけの書物を広げるための長机と、深く座れる椅子が並び、窓のないはずの壁面からは、淡い光が静かに差していた。
「お二人には、こちらの書庫もご自由にお使いいただけます。読めない文字があれば、わたくしにお声がけください」
次に案内されたのは食堂だった。
外来者用に用意されたというその空間は、暖色の光に包まれた広間で、天井には柔らかな魔灯が揺れている。
人間の城と変わらぬ造りではあるが、食器の材質や装飾には魔族独自の意匠があり、どこか異国めいた雰囲気を漂わせていた。
「お食事は、こちらで。ご希望があれば厨房に伝えますので、遠慮なく仰ってください」
最後に案内されたのは、中庭だった。
白い石で敷き詰められた小道が庭の奥へと続き、その脇には不思議な形の花々が咲き誇っている。
水音がする方へ目を向けると、透明な水が流れる小さな泉があった。
そこにもまた灯りはないはずなのに、花々や草木の葉がほんのりと光を帯びている。
「この中庭も、お好きな時にご利用いただけます。外へ出ることは叶いませんが、空を感じられる場所ですから」
メアの口調は穏やかで、説明の節々に気遣いが感じられた。
それでもその微笑みの奥に、どこか“用意された自由”のようなものをイリナは感じ取っていた。
――あくまで「城の中に限る」という範囲付きの自由。
歓迎と監視が紙一重のこの空間に、カティアもまた、何かを感じ取っているようだった。
「……ありがとう、メアさん。とても、綺麗な場所ですね」
カティアの声は、まるで風に溶けるように静かだった。
その瞳が、淡く輝く花のひとつにそっと向けられる。
イリナは無言でその横顔を見守っていた。
広い城内を歩くのは、カティアにとってもイリナにとっても決して楽ではない。
しかしメアは二人の歩幅に合わせ、ゆるやかに足を運んでくれていた。
そのことに気づいたカティアが、小さく微笑みながら口を開く。
「私たちに会わせてくださってありがとうございます。優しいのですね」
その言葉に、メアはわずかに目を細めて応じた。
「魔王様の、大切な“花嫁様”ですから」
どこか穏やかな声音だったが、その先にはわずかな緊張がにじむ。
メアはふと視線を外し、言い添えるように続けた。
「……ですが」
歩みを止めずに、言葉は静かに落ちる。
「魔族の中には、この状況を良く思っていない者もおります。しばらくは、城の中でお過ごしいただくのが安全かと」
それは遠まわしながらも、警告に近い響きだった。
「歓迎」と「警戒」が入り混じる魔族の地――
その複雑な空気の中で、イリナの背筋がすっと伸びる。
カティアは何も言わず、ただ頷きながらメアの背を見つめていた。
その表情に怯えはない。ただ、深く受け入れる覚悟のような静けさがあった。
イリナはそっとその姿を目に焼きつけながら、言葉なき決意を胸に抱いた。