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聖女を愛した魔王は、私に死を望んだ  作者: 源泉


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雲散霧消

使うのは、短剣だった。

毒は使わない。

刃だけを、いつかよりも確かに、深く届くように。



その刃は、幾度も命を奪ってきた。

闇の中で。

背後から。

血の音を残して、誰にも知られず。



けれど今、イリナの手の中にあるそれは、

まるで別のもののようだった。



彼の胸元へ。

首筋へ。

心臓の上へと、刃は、まだ刃にならぬまま、そっと滑る。



柔らかく、躊躇うように。

傷をつけるでもなく、ただ肌の温度を確かめるように。

慈しむ手。

惜しむ指先。

まるで愛撫のように、刃は彼の命の上を撫でていく。



ミレクトは目を閉じた。

その動きは、眠りに落ちるような緩やかさだった。



これまで、数えきれない命を見送ってきたイリナにとって、

“死を望む者”の命を預かるのは、初めてだった。



命乞い。

恐怖。

絶望。



それらが刻まれた表情に、幾度となく刃を振るってきた。

だがミレクトは違った。



彼は、微笑みさえ湛えながら、終わりを待っている。



「……」



イリナは言葉を発さない。

けれど、剣の先は、確かに“場所”を選びはじめていた。



胸に――かつて何度も切り裂いた場所に。

首筋に――命が一番脆く通るところに。

心臓に――彼が最後に、誰かを想う場所に。



そのたびに、刃は止まり、少しだけ震えた。

血を望まぬ手つきで、肌をなぞるように。



その感触に、ミレクトは小さく息を漏らす。



熱を帯びた吐息。

それは痛みではなく、焦がれるような甘さだった。



「……イリナ」



その名を呼ぶ声は、すでに消え入りそうで。

けれどその吐息には確かに、

刃先が触れるたびに火照るような熱が宿っていた。



彼が目を開ける。



「僕のために……泣いてくれるの?」



その声に、イリナの頬を伝うものに、彼女自身が気づく。



涙だった。

熱も、衝動もなかったはずの胸の奥から、零れたもの。



ミレクトは震える指先で、そっとイリナの頬に触れた。

冷たいはずのその手が、不思議なほど暖かい。



指先に宿る鋭い爪で彼女を傷つけぬよう、

ミレクトは慎重に、頬を伝う涙をぬぐった。

まるで、壊れやすい宝石を扱うように、そっと。



そして、微笑んだ。



「……愛してるよ、イリナ」



その言葉は、霧のように淡く、けれど胸を穿つほど真っ直ぐだった。


イリナのまなざしが揺れる。


短剣の刃は、いまなお彼の喉元に添えられたまま。

ほんの少し力を込めれば、すべてが終わる距離。


だが、イリナは目を伏せ、小さく、かすかに首を振った。



そして、刃の向きを変える。

喉元からゆっくりと、鎖骨の下、左胸の近くへと滑らせる。




その命の器を壊すには遠く、だが確かに、命を削る場所。




鋼が肌をかすめ、薄く皮膚を裂く。

赤い雫が滲み出し、静かに、染み広がる。



ミレクトは眉をひそめながら、しかし、笑っていた。



それは、死ではなくそこへ導く人への信頼に満ちていた。



イリナの指先が微かに震える。

刃は、止まり、また進む。


まるで、愛撫のように。

命を奪うための剣が、

いつしかその命に触れるための手つきになっていた。



刃の軌跡に、血が咲いた。

赤は深く、静かに、彼の胸元を染めていく。


けれど、そこに苦痛はなかった。

ミレクトは目を閉じ、まるで安らぎの中に沈んでいくように、呼吸を緩めた。


消えていく命の中に、彼は不思議な満たされる感覚を感じていた。

それは痛みではなく、静かな悦びだった。


冷たい独房の石壁も、湿った空気も、

もう痛みを運んでくることはない。


彼の身体から抜けていく命が、

まるで重荷を手放すように、穏やかに流れていく。


 

「……ありがとう、イリナ」


 

かすれた声は、囁きにも満たないほどだった。

だが、それでも彼は言葉を紡いだ。

生の終わりに、伝えるべき最後の音として。



イリナは何も答えない。

ただ、血に濡れた手で彼の頬を支え、

細くなる呼吸を黙って見つめていた。


その瞳には、涙が一滴、二滴と浮かぶ。

けれどそれは悲しみではなく、

ただ、そこに「在ったもの」に触れた証として流れたもの。


ミレクトの唇が、わずかに動いた。

けれど、もう声は出ない。


残された力をかき集めるようにして、イリナの左手を、自身の口元へとそっと導く。

震える唇が、血に濡れた薬指にそっと触れる。


何度も、まるで刻みつけるように。

歯を立て、赤く染まったその指に、自らの命の名残を重ねるように。



そして、微笑んだ。



すべての執着も、苦しみも、罪も。

そのひとときだけは、すべてが赦されたようだった。

まるで世界に何一つ憎しみがなかったかのように、

ただ穏やかで、満たされた笑み。



イリナは、そっと刃を引いた。

もう、それ以上に削るものはなかった。

彼の命は、彼女の手の中で終わっていった。



残されたのは、静寂と、

微かな体温の余韻だけ。



そして――



イリナの視線が、彼の瞼の奥へと吸い寄せられる。


最期に見たミレクトの瞳は、初めて出会った夜の夢の中で見た、人間だった少年のそれと同じ色をしていたように思えた。



澄んでいて、どこか寂しくて、誰かを見つめていた、あの目。



過去も罪も、すべてを溶かしたその色は、

ほんのひととき、確かにイリナの心に何かを残して、

音もなく、静かに霧のように溶けていった。


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