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聖女を愛した魔王は、私に死を望んだ  作者: 源泉


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霧に還る

カティアはやはり、ただの風邪だった。

数日静かに休みを取っただけで、彼女の熱はすっと下がり、喉の痛みも咳もすぐに薄れていった。


イリナは、そんな回復を見届けながら、胸の奥から滲み出る安堵に身を委ねた。

それはカティアが無事だったことへの安堵であり、

同時にそんなふうに誰かの回復を願える自分自身を、まだ捨てきっていなかったことへの安堵でもあった。



心の奥に燻るラグナスへの想いは、今も形を変えながら燃え続けている。

けれど、それ以上に今は、カティアが大切だ。

彼女の笑顔に、自分が触れられるうちは。


その中で平穏を保つために必要だったもの。

それが、間違いなく「彼」の存在だった。


 

朝。

まだ霧が渡り廊下に薄くたちこめる頃、イリナは音を立てぬように歩いていた。

夜と朝の狭間、夢と現の境のような時間帯。

この城でこの時間に目覚め、廊下を歩く者は、イリナ以外にはいない。


空気はしっとりと肌を湿らせ、見慣れた石壁もどこか朧にかすんで見える。

それがふと、初めて彼と出会った夜の空気と重なる。



――静かで、苦しくて、それでも引き返せなかった夜。



いつもと同じように、見張りが立つ重厚な扉の前で立ち止まる。

中からは、気配ひとつしない。



けれど、イリナはそっと扉を押した。



静かな音とともに開かれた先、そこに彼はいた。



「……おはよう、イリナ」



囁くような声が、かすかに空気を震わせる。



「起きていたのね、ミレクト」



そう返す声も、自然と小さくなる。


ミレクトは壁にもたれかかるようにして座っていた。

呼吸は浅く、両肩は布に埋もれるほど細くなっていた。


その姿はまるでの部屋に溶け出した霧のように、

触れればすぐに崩れ、消えてしまいそうなほどに儚かった。



最近のミレクトは、日中も夜も関係なく長く眠り続けていることが多かった。

目を覚ましても、口をきくまでに時間がかかることもしばしばだった。

けれど今日は久しぶりに、イリナの声よりも先に、彼の声が先に部屋を満たしていた。



「珍しいわね。先に起きてるなんて」



「うん……今日は、なんとなく……目が覚めたんだ」



ミレクトの声は乾いていたが、その言葉の中には、微かな喜びのようなものが含まれていた。


イリナはゆっくりと扉を閉め、静かに彼のもとへ歩み寄った。

朝の霧が、まだ肩にまとわりついているような気がした。

まるで、この部屋の空気ごと彼が消えてしまいそうで、

彼女はその場に立ったまま、一瞬、目を閉じる。



「……寒くはない?」



「大丈夫。イリナが来てくれたから」



返されたその一言に、イリナは言葉を失った。


その優しい響きが、あまりにも静かで、あまりにも温かくて、それだけで、この霧のなかに立ち尽くしてしまいそうだった。


 


ミレクトは、今にも指の隙間から零れ落ちていくようだった。

だが彼の目だけは、どこか澄んでいた。


何かを終えることを受け入れた者の、遠くを見つめる静けさ。

そして、その終わりの時間にイリナがいてくれることに、確かな満足を感じている瞳だった。



イリナは、何も言わずに、そっと彼の隣に腰を下ろした。



まだ霧の晴れぬ朝。

そこには、何も起きていない。

けれど、確かに何かが静かに失われつつある。

そんな気配が、肌に沁みていた。



「今日は、どうしてこんなに早く来てくれたの?」



かすれるようなミレクトの声が、霧の漂う空気の中で溶けていく。


イリナは少し視線を彷徨わせたあと、静かに答えた。



「……霧が、出ていたから」



それは、ありふれた天候の変化に過ぎないはずだった。

けれど、その言葉の奥には、もっと別の意味が滲んでいた。



――霧。

それはミレクトが最も得意とした魔法であり、彼の気配そのものを思い出させるものだった。



初めて出会った夜。

敵として刃を交えたあの一瞬。

濃い霧が満ちた部屋の、あの日の感覚が胸の奥に微かに残っていた。


懐かしそうに、けれどどこか切なげにイリナが言葉を紡ぐと、ミレクトは微笑んだ。

細く、消え入りそうなその笑みに、静かな喜びが宿っていた。



「……僕を思い出してくれるものが、あるんだね」



小さく、かすれた声。

その音に、イリナはそっと耳を澄ませ、ためらいもなく彼の隣に腰を下ろした。


ふたりの間を満たすのは、霧のように淡く、重たい沈黙。

だがその沈黙を破ったのは、ミレクトの言葉だった。



「ねえ、イリナ」



「……うん」



イリナは応じる。

その声もまた、どこか覚悟を含んでいた。



ミレクトはゆっくりと、イリナの手の上に自らの手を重ねた。

その手は、驚くほど冷たかった。


「僕は……このまま、死の淵に呑まれていくみたいに、ただ終わるのは嫌だ」



細く震える声が、静かに漏れる。

目を閉じたまま、それでもミレクトの言葉には確かな意志があった。



「君に、終わらせてほしい」



イリナは、何も言わなかった。

けれど、重ねられたその手を、拒むこともしなかった。


指先に伝わる冷たさは、確かに“終わり”の気配を帯びていた。

けれどそれ以上に、そこに込められた願いが、痛いほど伝わっていた。


この男は、もう死を恐れていない。

ただ、自分という存在の“終わり方”を、イリナに託したかったのだ。



「毒でも、剣でも……」



ミレクトは、そっと言葉を紡ぐ。



「君に殺されるなら、どれだけ苦しくてもかまわない」



それは冗談のように聞こえるほど、静かで、優しい声だった。

けれどその響きの奥にあるのは、諦めでも絶望でもない。

願いだった。


ただ一つ、自分の終わりを受け止めてくれる存在に託したいという、ささやかで切実な願い。



「でも……」



ふと、ミレクトは言葉を止める。

言いかけて、躊躇って、唇をかすかに噛む。

まるで口にすることで、何かが壊れてしまうことを恐れているかのように。


そして、そっと目を上げた。


その瞳は、濁りも怒りもなく、ただまっすぐに――

すがるようにイリナを見ていた。


「僕を……“僕自身”として殺してほしい。

誰かに似ている僕じゃなくて――

君が、僕を見て、終わらせてほしい」



その一言が、空気の温度を変えた。



イリナは、わずかに目を見開いた。

気づかれていた。

自分の視線の先が、いつも“誰か”を重ねていたことに。

ラグナスという名を、心の奥に宿したまま、ミレクトを見つめていたことに。



けれど、ミレクトは責めなかった。

怒りもせず、悲しみも見せず、ただ微笑んでいた。



その微笑みが、たまらなく切なかった。



「ええ、わかったわ」



イリナは静かに立ち上がり、手元の布をそっと畳む。

腰の裏に隠していた短剣に、そっと指をかける。

その動きに、迷いはなかった。

それでも心の奥は、どこまでも沈黙していた。



「うれしいな」



それだけを残して、ミレクトは目を伏せた。

まるで、大切なものをそっと胸にしまうように。



冷えた空気の中、彼の言葉はゆっくりと霧のように消えていく。


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