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聖女を愛した魔王は、私に死を望んだ  作者: 源泉


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傷の指輪

イリナは、独房の扉を静かに開けた。



銀の盆を手に、敷居をまたぐ前で一度、呼吸を整える。

その盆の上には、湯気の立つスープと焼きたての小さなパン。

今日は毒も、刃も仕込まれていない。ただの食事。それだけだ。


食器は二人分。

最近は、この独房でミレクトと向かい合い、同じものを食べることが増えていた。


研究は、以前のように連日ではなくなった。

一日置き、二日置きと、少しずつ間を空けるようになったのは、ミレクトの身体が明らかに限界に近づいていたからだ。


彼の再生能力は落ち、魔力の循環も遅れている。

以前なら数時間で癒えた傷が、今では数日残る。


だから今日は、「痛みのない日」。



ただ、生きるための食事を運ぶ日。

何も奪わない。何も試さない。



「……おはよう、ミレクト」



その声には、いつも通りの抑制があった。

けれど、微かに滲む柔らかさがあったのも確かだった。


鉄格子の向こう、壁にもたれて座るミレクトの姿がある。

痩せた頬、落ちた肩。

それでも、彼は口元だけで微笑みを作った。



「……今日は毒の匂いがしないんだね」


「今日は“研究”じゃないの」


「……そっか。じゃあ、今日は死ねない日だ」


「そういうことを言える元気はあるのね」



イリナはかすかに口端を上げ、盆を格子の隙間に置いた。

その手には、いつものような冷たい硬さはなかった。


ミレクトは、そっと盆を見下ろす。

そして、ぽつりと呟く。



「イリナから痛みをもらわないと、生きてる気がしないんだよ。……なんて、滑稽だよね」



イリナはしばらく沈黙したままだった。

やがて、小さく息を吸い、そっと一歩、彼の方へ歩み寄る。


格子の冷たい鉄と、微かに漂う血の気配。

それでも彼女は立ち止まらなかった。


ミレクトの目が、静かに彼女を見つめる。



「今日は一緒に食べてくれるんだ?」



ミレクトの問いに、イリナは一瞬だけまぶたを伏せ、静かに頷いた。



「……ええ。少しだけ、時間があるから」



それだけの言葉なのに、ミレクトの口元に微かな笑みが灯る。


ふたりは盆を挟んで向かい合うように腰を下ろし、しばしの間、無言のまま食事をとった。


スープの湯気が立ちのぼり、湿った空気にささやかな温もりを添える。 パンの表面はわずかに焼き色があり、ミレクトはそれをゆっくりと千切って口に運んだ。 その手つきさえ、どこか儀式のように慎重だった。


イリナもまた、静かにスープをすくう。 二人の間に言葉はなかったが、沈黙が重いわけではなかった。 静けさの奥に、微かな安堵の気配すらあった。



そして、まるで決まりごとのように、イリナは左手を彼の前に差し出した。 迷いはなかった。

その動作は、もはや日常の一部のように、自然でどこか切なかった。


けれどその時、ふと、イリナの指先がわずかに揺れる。



「……もしも、私じゃなくて……」



ミレクトは、彼女の手をそっと両手で包み込む。 そのまま、続きを促すように黙して待った。



「魔族や、魔力を持つ人間……たとえば、カティアだったら。もっと回復の助けになるのかもしれないわね」



イリナの声には、感情は乗っていなかった。 ただ、理知的な問いとして発せられた言葉。けれどその裏にある微かな揺らぎを、ミレクトは見逃さなかった。


ミレクトはその言葉に、ゆっくりと首を横に振った。 穏やかに、しかし否定の意志を込めて。



「それでも、僕には君だけでいい」



彼の声には、冗談めいた軽さはなかった。 それは、祈りのような執着だった。


そして、ミレクトはイリナの手をそっと両手で包み、指を撫でるように薬指へと唇を寄せる。


その瞬間、彼の口元から、細く鋭い牙が覗いた。



「……ごめんね、少しだけ」



囁くようにそう言うと、彼は迷いなく、薬指に牙を立てた。


深くはない、しかし確実に皮膚を破る痛み。 血が滲み、ゆっくりと赤が浮かぶ。


ミレクトはその血に舌を這わせ、零れ落ちる雫を逃さず舐めとった。

その仕草は、吸血にも似ていたが、どこか献身に近いものがあった。



「この血が毒でも、君じゃなきゃ意味がないんだ」



そう呟く声は、まるで酩酊した詩人のようだった。

滴る血の熱に酔いながら、彼は確かに、生きようとしていた。


イリナは痛みに顔をしかめることもなく、ただその手を差し出し続けた。



彼が選んだのは、薬指だった。

そこに日ごと、ほんのわずかに傷を刻む。


まるで、赤い輪を描くように。 誰の目にも見えない、血で編まれた“指輪”を、そこに刻み続けていた。



イリナはしばらく何も言わず、その手を引こうともしなかった。 ただ、わずかに視線を伏せたまま、呼吸を整えるように目を閉じる。


指先に残る温もり。

滲んだ痛み。

それを、彼女は拒まなかった。



ぬるんだ空気の中で、今日もまた、終わりが遠のいた。

痛みのない日は、残酷なほど静かだった。

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