花は籠の中で色を変える
あの日、謁見の間で、彼女と初めて真正面から相対した瞬間。
ラグナスは、不意に言葉を失った。
白銀の刺繍を縫い込んだ純白の衣装。
それはまるで、血や泥に汚されることすら許されぬほど神聖なもので、彼女の小さな肩に“祈り”という名の重荷を静かに降ろしていた。
聖女として。
王女として。
そして、敵国に捧げられる供物として。
その立ち姿には確かに気高い強さがあった。
けれど、彼女の瞳の奥に沈む怯えの色だけは隠しきれなかった。
長い年月の中で語られてきた、人間が魔族に贄として差し出された無数の逸話。
それが真実であるかどうかなど、もはや関係がない。
“語られてきた”というだけで、彼女はその物語に巻き込まれていた。
他者の都合で、未来も命も委ねられる定めを、彼女は誰よりも理解していた。
だからこそ、ラグナスは決めた。
この城を、彼女を守る籠に変えることを。
城門は閉ざされ、使用人は最小限に抑えた。
城の外とは断絶され、音も、視線も届かない静謐な空間。
その沈黙が牢獄に等しかったとしても。
“聖女”という役割から解き放たれるための時間は、きっとそこにしかないと、彼は信じていた。
やがて、その信じる想いは確かな形となって表れ始める。
最初は、ほんの小さな揺らぎだった。
ラグナスに向けて交わされた、たった一言の朝の挨拶。
果実の赤みを見て微笑む柔らかい頬。
窓辺のカーテンが揺れるたび、髪を撫でられるように目を細める、年相応の少女の姿。
それは、戦場で見た凛とした“祈り手”でも、
玉座の前に立つ“聖女”でもなかった。
ただ、ひとりの娘だった。
恐れも、喜びも、ささやかな苛立ちも知っている、血の通った人間だった。
彼女は、この場所で少しずつ自分を取り戻していた。
そして、変わったのはそれだけではない。
初めは距離を測るように伏せられていた視線が、
やがて真っ直ぐラグナスを捉えるようになり、
彼の言葉に耳を傾け、時には問い返すほどの余裕を見せるようになった。
そのすべての変化が、ラグナスにとっては奇跡のように感じられた。
“恐れ”からではなく、“意志”として、彼女はラグナスの隣に立ち始めていた。
だが、波紋は突然落とされる。。
ある日、訪問者が城門を叩く。
ナグルア。先代魔王の娘。蛇の鱗を宿す者。
その存在は、ラグナスにとって“敵ではないが、味方でもない”厄介な影だった。
彼女の来訪は、この城に、そして“聖女”に対する明確な牽制だった。
その視線の鋭さ、声に滲む毒、細く分かれた舌の奥に潜む悪意。
どれもカティアは察していたはずだ。
それでも、彼女は一歩も退かなかった。
魔王の隣に立つ者として、毅然とナグルアを迎えたその姿は、静かで、けれど芯の強さに満ちていた。
そしてその夜、あの惨劇が起きる。
静かな寝室。
カティアとイリナが共に休むはずだった部屋に忍び込んだ影。
それはナグルアの従者、ミレクト。
彼は来訪時からすでに、魔力の霧を城内に紛れ込ませていた。
それは空気に溶けるように自然で、魔王であるラグナスでさえ完全には察知できなかったほどの術。
人間への激しい憎悪と殺意。
それがミレクトを突き動かしていた。
戦争を止めた“象徴”であるカティアの存在が、彼には許しがたかった。
彼女を殺すつもりはなかった、そう彼は言う。
だが、もしそこにイリナがいなかったなら。
その言葉が、どれほど虚ろなものだったかは、想像に難くない。
イリナは剣を抜き、少女を庇って戦い、深く傷ついた。
その姿を見たカティアは、崩れるように彼女の名を呼び、声を震わせ、涙を落とした。
それは、悲しみというにはあまりにも純粋すぎる想いだった。
「誰かのために傷つく」ことを、彼女は自らの“罰”のように受け止めていた。
それでも、イリナを守りたいと願った。
怯えながらも、立ち向かうことを選んだ。
ラグナスはその光景を、ただ黙って見つめていた。
泣き濡れた頬に宿る光。
痛みと共に滲む祈りのような優しさ。
守られるだけでなく、誰かを守りたいという意志。
その夜、ラグナスの胸にあった“距離”は、確かに崩れ落ちた。
この想いは、かつて神に与えられた“役割”などではない。
聖女を護るべきという義務でもない。
ただひとりの少女を、深く、強く、愛おしいと想った。
それだけの、ひとりの男の心だった。
痛ましい夜だった。
けれどその痛みこそが、二人の心を決定的に変えていった。
ラグナスは、イリナの体内に微かに残る霧の魔力を、丁寧に、そして静かに取り除いていった。
残滓はごく僅かだったが、放置すれば心にも身体にも歪みを残しかねない。
目に見えぬ毒を、魔王の指先は寸分の狂いもなく取り除いていく。
その横で、カティアは眠るイリナの傍らに付き添っていた。
彼女の手の中には、祈りにも似た微細な癒しの魔法が宿り、
損なわれた皮膚や筋肉を、少しずつ、少しずつ修復していく。
その作業は、どちらにとっても初めての経験ではなかったはずだ。
だが、その夜だけは、何かが違っていた。
血を見慣れたラグナスの指が、傷の浅さに安堵し、
誰かの痛みばかり見てきたカティアの指が、誰かを“救える”ことに震えていた。
ひとつ、ふたつと言葉を交わす。
呼吸の音が重なり、沈黙の中に安らぎが宿っていく。
ただ傍にいるという事実が、互いにとって深い安堵となって染み込んでいった。
“彼女がいてくれる”
“彼がそばにいる”
それだけのことが、こんなにも強く心を支えてくれるのかと――
あの夜、二人は知った。
イリナの回復には時間がかかった。
目覚めた彼女が最初に口にしたのは、自身の容体でも、ミレクトのことでもなく、カティアが無事であることへの、絞り出すような安堵の言葉だった。
その声に、カティアは涙をこらえきれなかった。
それからしばらくの間、静かな日々が流れた。
癒しと回復の時間。
けれどその中で、ラグナスとカティアの距離は、確かに“それ以上の何か”へと変わっていった。
手が触れそうで触れない距離に座りながら、ふとした瞬間に目が合う。
互いに言葉を探し、しかし語らず、けれどその沈黙が心地よく続いていく。
すでに言葉ではない絆が、ふたりの間には結ばれつつあった。
それは、運命が与えた役目を超えて、
神に選ばれた魔王と聖女という立場を超えて、
ただひとりの男と女が、痛みの夜を経て結び合う瞬間だった。
その静かな幸福が、
誰かの心に、影を落としていたことに、
ふたりはまだ、気づいていなかった。
そしてその影は、静かに、けれど確かに、
この城の奥へ、深く沈んでいった。
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