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聖女を愛した魔王は、私に死を望んだ  作者: 源泉


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選ばれた者たちの孤独

ミレクトの独房を後にしたラグナスは、重く沈んだ思考を引きずるようにして、自室へと足を運んだ。

扉を開けると、香ばしい匂いとともに、ひとつの声が彼を迎える。



「おかえりなさい、ラグナス」



微笑んでいたのは、カティアだった。

テーブルには淹れたての紅茶と、小ぶりな焼き菓子が並んでいる。どうやら使用人たちと一緒に作ったらしい。



「甘すぎないようにって、気をつけたの。ラグナスは、苦いのは平気でも、甘いのはあまり得意じゃないでしょう?」



その言葉に、ラグナスはわずかに目を細めた。

頭の中を巡っていた思考の重さが、ほんの少しだけ軽くなる。


ソファに腰を下ろし、カティアが静かに隣に座る。

何も言わずとも心が緩む、その距離に、彼はほっと息をついた。


カップを受け取り、香り立つ湯気を鼻先に感じながらラグナスの心は、自然と過去へと還っていく。




それは、魔族にとっては「ほんの少し」前。

けれど人間にとっては、時代をいくつか超えるほどの昔のこと。


かつて、先代の魔王が人間の勇者によって討たれ、魔族の国は激しい混乱に包まれた。

魔王という柱を失った魔族たちは、誰がその座を継ぐかを巡って争い、血を流し続けた。



「力こそが正義」

誰もがそう信じ、かつての敵である人間との戦すら忘れ、自らの同胞を屠る日々。

それは、王の座を巡る泥沼の争いだった。



そんな最中に、神託は突如として降りた。

選ばれし者の名は――ラグナス。



だが彼は、剣を好まず、争いを望まない男だった。

力がないわけではない。けれど、誰もが望む「王の器」とは真逆の在り方だった。



「なぜ、あいつなのか」


「戦いもしない者が、どうして神に選ばれる?」



魔族たちは戸惑い、苛立ち、その不満を神に向けることはできず、代わりにラグナスへとぶつけた。

彼はその理由を理解していた。

選ばれた者への妬みと、神に逆らえぬ無力さが、自分という存在に牙を剥いているのだと。


それでも、心が痛まないわけではなかった。


なぜ、自分なのか。

なぜ、この座を与えられたのか。



問いは、答えを得られぬまま胸の内で渦を巻き続けた。



そんな中でも時は進み、歴史はなぞるように繰り返される。

人間との領土争いは、再び始まった。

魔族たちの混乱が静まったとき、人間たちはかつてよりも遥かに数を増やし、地図を染め替えるように進軍を続けていた。



ラグナスは領土にも、戦にも興味を持たなかった。

けれど、戦うことで魔族たちの不満の声は収まり、彼を「王」として仰ぐ声は増えていった。



それはけして望んだ姿ではなかった。



ラグナスは人間にも興味はなく、ただ魔王として「求められる役割」をなぞるように戦いを続けた。

演じるだけの王、意思のない象徴。

それでも選ばれた意味を探し続けるために、彼はその道を歩むしかなかった。


百年を越える時が、ただ血と灰を重ねていった。

勇者の名は風に流されるように消え、代わりに人々の記憶に残ったのは、神に選ばれた魔王、ラグナスの名だった。



戦の指揮を執る者が現れ、兵をまとめ、戦術を練る者たちが育ち、

ラグナスの傍にも「腹心」と呼べる部下たちが自然と集まり始めていた。



力において魔族は人間を凌駕し、

数と統率において人間は魔族を上回る。



その争いは、どちらかが一方的に勝利することもなければ、劇的な転機を迎えることもなかった。

ただ、静かに、確かに、終わること無く続いていた。



――そして、あの日が来た。



それは、ラグナスが何かを求めたわけでも、特別な意図があったわけでもなかった。

ただ、前線に立つ者たちへのささやかな激励として。あるいは、自らがどう見られているのかを知るための視察だったのかもしれない。



彼は、魔族とある小国の人間との争いが続く地へと足を運んだ。

戦局は、均衡していた。

人間側に特筆すべき強者がいるわけでもないのに――なぜ、ここだけが膠着しているのか。



その小さな違和に、ラグナスはほんの少し、興味を抱いたのだった。


ラグナスは、空を滑る一羽の鳥へと視線を向けた。

そしてそっと瞼を閉じ、自らの意識をその小さな身体へと重ねる。


向かうのは、人間たちの陣営。

見えぬ強力な兵器や結界が潜んでいるのではと考えての偵察だった。


だが、陣地の内部に彼が予想していたような“力”の気配はなかった。


代わりに、彼の目を奪ったものがあった。


それは、血と土埃にまみれた戦場にはあまりに不釣り合いな存在。

兵士たちに無事を祈り、傷ついた者には膝をついて手当てを施し、

そして、命を落とした者には涙をこぼしながら、その最期を静かに看取る――



ひとりの少女の姿だった。



風に揺れる髪と、穏やかに透き通った眼差し。

彼女の周囲だけが、まるで戦場の外にあるかのようだった。


なぜだろう、とラグナスは思う。

理由などなかった。ただ、彼は彼女から目を離せなかった。


彼女の手は、命を守ろうとしていた。奪うためではない。

それは、自らの役割をただ演じるだけの自分とは違う、真っ直ぐな生き方だった。

それが、羨ましかった。



意識を宿らせた鳥の翼は、いつしか動きを止めていた。

彼女を見つめたまま、空の一点に留まるように。


その異様に気づいたのか、少女がふと顔を上げる。

そして、迷いながらもそっと近づき、鳥に向かって手を伸ばした。


指先が、届きかけたその瞬間、

ラグナスは魔法を解き、意識を自らの身体へと引き戻した。


残響のように、まだ心の奥に残るのは、あの少女のまなざしだった。

静かで、やさしく、けれど確かな強さを秘めた眼差し。



「……彼女は、いったい……」



自分の胸の奥に生じた名も知らぬ衝動に、ラグナスは静かに息をついた。



それが、

領土の境界に位置する小国――ルヴィエル王国の第三王女、

カティア・ルヴィエルとの初めての邂逅だった。


その時点で彼女の名も地位も知らなかったはずなのに、

ラグナスの心は不思議と彼女に惹かれていた。


あの、戦場に似つかわしくないまなざし。

祈るように兵士の手を握る姿。

命を奪う者たちの中で、ひたすら命をつなごうとする者。


その存在は、彼の中にあった何かを震わせた。


やがて彼女の名を知り、立場を知り――

そして、彼女が「聖女」であることを知った時、

ラグナスはもう戻れなくなっていた。


人間の世界にもある、“逆らえぬ定め”。


生まれながらに神に選ばれ、

人々に希望として祀り上げられ、

自らの意思を語ることさえ許されず――

ただ、誰かのために捧げられる存在。



それは、まるで鏡だった。



彼自身もまた、神に選ばれ、

求められる役割を演じることでしか存在できなかった魔王。


ラグナスは知ったのだ。

彼女は自分と同じ、いや、それ以上に孤独な存在だと。


だからこそ、ラグナスは決めた。

魔王となってから、初めて“自分の意志”で選ぶと。


誰かに従うのではなく、神託でも、兵たちの期待でもなく、

ただ、自分の意思で。



「彼女を、奪う」



そう、静かに。

けれど、確かに心の中でそう決めたのだった。


ラグナスは、決意したその瞬間から迷わなかった。



彼はすぐさま使者を遣わし、ルヴィエル王国へと通達を送る。

「長引く戦の終結を望むなら、聖女をこちらに渡せ」と。


あまりに一方的とも言える要求。

だが、王国はすぐにそれを受け入れた。


疲弊した兵。尽きかけた物資。

民の不満と不安。

すでに戦う意志を保つには限界だったのだ。



休戦という言葉は、誰にとっても救いだった。



王族にとってさえ、たとえその代償が“聖女”であっても。



返答が届くや否や、ラグナスは即座に全軍へ「休戦」を告げた。

その声に、誰も逆らわなかった。



魔王としての地位を確立して久しいラグナスに、もはや公然と異を唱える者などいなかったのだ。

だがそれでも、すべてが静かに収まるわけではなかった。


カティアが魔王城に迎えられるという話が広がると、

中には「聖女を殺せば、休戦は終わる」と囁く者も現れた。

あるいは、単に人間への嫌悪を隠そうとしない者たちもいた。



ラグナスは、それらすべての声を聞き流した。

そして、何も語らずに動いた。



彼は城を閉ざし、出入りを制限し、使用人の数も最小限に抑えた。

城内に残す者は、信頼に足る者のみ。


カティアを“政治の取引の道具”にしようとする者たちから、

そして、無意味な憎しみに晒そうとする者たちから、

ラグナスは彼女を隔てるように、静かに城を囲った。


それは、たとえ世界が彼を誤解しても、

たとえ誰も理解しなくとも、


この“選ばれた聖女”だけは、守ると決めたから。


それが、自ら選び取った“魔王”としての初めての行動だった。



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