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聖女を愛した魔王は、私に死を望んだ  作者: 源泉


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見つめる者と見つめられる者

ラグナスは城の廊下を抜け、石造りの回廊を静かに渡っていた。


空は鈍色に曇り、風ひとつなく、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。

その足取りは沈着でありながら、確かに何かを求める意志がにじんでいる。


視線の先。

城の東端に佇む、重く沈黙した離れ。

そこは、誰も好んで近づこうとはしない場所だ。

魔力を封じるための結界が張られ、内と外を切り離すように存在している。


ミレクトが幽閉されている独房。

そして、そこに日々通うイリナの姿。


彼女は何も語らなかった。

いつも通りに振る舞い、普段通りに微笑んでみせる。

だからこそ、ラグナスは感じていた。

その裏にひそむ、微かな軋みと、名もなき違和。


ラグナスは理性と秩序の人だ。

だが、心の奥に燻るこのざらつきだけは、いつまでも消えることはなかった。


そして、そのときだった。


ちょうど角を曲がった先。

石畳の廊下の向こうから、一人の人影が姿を現した。


――イリナだった。


目指していた離れから、ちょうど戻ってきたところだろう。



「ラグナス様、カティア様はご一緒ではないのですね」



ごく自然な口調で、イリナが声をかけてくる。

まるで、そこにいるのが当然だとでも言うように。


一瞬、ラグナスの返事が遅れた。

戸惑いが表情に出たのか、イリナは不思議そうに小首をかしげる。

そして、次の瞬間には何事もなかったかのように微笑み、そのまま、静かに歩き去っていった。



淡く揺れたその微笑みは、確かに温かさを帯びていた。

けれど、ラグナスの胸には何かがざらりと引っかかる。



(……やはり、何かが変わっている)



ただの慈悲ではない。

ただの優しさでもない。



――そして。



イリナが立ち去った後に、ふと鼻をかすめた。


かすかに、鉄のような、重たく澱んだ匂い。


血の匂いだった。


空気に溶け込むほど微細でありながら、確かにそこにある気配。


ラグナスの表情が、音もなく引き締まる。


その匂いが、彼の中に芽吹いた疑念を、さらに深く静かに根づかせていった。




ラグナスは、城の東端。分厚い石壁で築かれた、ひときわ冷たい気配を放つ離れの前に立っていた。



この場所に囚われているのは、ミレクト。

彼に食事を運ぶのも、声をかけるのも、ただ一人。

イリナだけだった。


この独房を交代で見張る兵士たちも、決して扉の中へは立ち入らない。

彼らの務めは、ただその扉の前に立ち、静かに見守ることだけ。


それが“決まり”だった。

それが、“イリナの意向”だった。


だからこそ――


魔王ラグナスが、この場に現れたとき。

兵たちは、目に見えて戸惑いの色を浮かべた。


「……ここの鍵は、イリナ様がお持ちです。私たちには、開けることは――」


言葉を言い終える前に、ラグナスは扉へと手を伸ばしていた。


無言のまま、重く冷たい金属に触れる。


ガチャリ――


重厚な錠前が軋みを上げて外れ、扉がゆっくりと開かれた。


この城の主であるラグナスにとって、すべての扉はその意思ひとつで開く。

鍵など、形式に過ぎない。


兵士たちの視線を背に受けながら、ラグナスは扉の内へと一歩足を踏み入れた。


中は薄暗く、冷気とともに重苦しい沈黙が満ちていた。


扉を静かに閉めると、わずかな光だけが射し込む独房の中へ、ゆっくりと足を進めていく。


目が闇に馴染むのを待ちながら、ラグナスは奥へと視線を向けた。




独房の中に入ると、扉のすぐ先にはもう一重、重く冷たい鉄格子がはめ込まれていた。

その奥が、ミレクトが暮らすわずかな空間だった。


光源は一つ、高窓から差し込む淡い陽光のみ。

その斜光の中に、彼の姿はあった。


壁にもたれ、膝を抱えたまま目を閉じている。

気配にすら反応せず、まるで眠っているようだった。



(……随分と、弱っている)



ラグナスは眉をひそめる。

この独房には、魔力を遮断し、わずかに吸い取る特殊な結界が施されている。

魔力を血のように巡らせて生きる魔族にとっては、まるで全身の血管からゆるやかに命を抜かれていくような感覚を覚える場所。



だが、それにしてもミレクトの消耗は想像以上だ。



先ほど、イリナが通り過ぎたときにふと感じた、微かに漂っていた血の匂い。

その残滓が、ここにも薄く残っている。



(ここで……彼女と、いったい何をしている?)



ラグナスはゆっくりと格子へ近づき、その冷たい鉄に指先を触れた。

微かに金属が軋みを立てる。



その音に反応して、ミレクトがゆっくりと瞼を開いた。



「……イリナ?」



掠れた声で、彼が呟く。


だがラグナスの胸に引っかかったのは、その声よりもその“眼差し”だった。



それは、まるで――



飼い主を待ちわびる犬のような、

いや、カティアがラグナスに向けるときのような、

切なく、愛おしむような光。



その純粋すぎる輝きが、ミレクトの瞳の奥に確かに宿っていた。



だがその瞳が向ける先にある“想い”と、

部屋に微かに漂う血の匂いとの間には、どうしようもない違和があった。



ラグナスは、その意味を即座には掴みきれず、ただ立ち尽くす。

胸の奥に溶け切らない疑問が残り、言葉が喉の奥で固まり、出てこなかった。



静寂の中で、疑念だけが深く、静かに根を張っていく。



鉄格子の軋む音に、ミレクトはうっすらと瞼を開けた。

視線はまだ焦点を結ばず、かすれた声が空気に溶ける。



「……イリナ、どこに行ってたの」



その囁きは細く、儚く、まるで夢の続きを探すようだった。



「残念だな。違う」



低く、落ち着いた男の声が返る。

ミレクトの視線がゆるりと動き、格子の向こうに立つ男の姿をとらえた。



「……魔王様、か」



明らかな落胆が、その声音ににじむ。

彼はゆっくりと体を起こそうとしたが、すぐに胸の奥から咳き込みが溢れた。


肩を震わせ、手で口元を覆う。

指の隙間から、赤い液体がじわりと滲み出る。


ラグナスの目が鋭く細まった。



「……毒か、傷か。それとも――拷問でも受けていたのか?」



ミレクトは、口元の血を見て、わずかに笑った。



「……そう見えるかい?」


「それ以外に、どう見えると思う」



ラグナスの視線が、鋭くミレクトを貫く。

独房の重い空気の中に、確かに漂っている鉄の匂い。

さきほどイリナとすれ違った際に感じた微かな残滓が、今、この部屋に繋がっていた。



「イリナと……何をしていた」



ラグナスの問いは抑制されていた。

怒りを飲み込み、冷えた刃のように研がれている。


ミレクトは、壁にもたれたまま天井を見上げた。



「遊んでいただけさ。……彼女に、付き合ってただけだよ」


「“遊び”だと?」



ラグナスの声が、低く沈んだ。



「イリナは……何かを探している。僕の体を通して、何かを見ようとしてるんだ……」



その言葉には、苦痛とも恍惚ともつかない響きがあった。

ミレクトの表情には、うっすらと微笑が浮かぶ。

どこか熱を帯びたその目を、ラグナスは見逃さなかった。



「お前は、それでいいのか」


「彼女が何かを見つけるために……僕を、見つめてくれるなら」


「そのために命を削られることが、誇らしいとでも?」



ミレクトは何も答えなかった。

けれど、その沈黙が全てを物語っていた。



ラグナスは、静かに息を吐く。

それにかぶせるように、ミレクトがぽつりと呟いた。



「……いいな、君は。何もしなくても見つめてもらえて」




その皮肉とも羨望ともつかぬ言葉は、独房の冷たい空気に紛れて、ラグナスへは届かずに、消えていく。



格子の間に広がる沈黙が、ゆっくりと濃くなっていった。


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