平和の空白を継ぐ者
この世界には、ふたつの大きな種が存在する。
「人間」と「魔族」
同じ空の下に生まれ落ちながら、
異なる時の流れを生き、
異なる価値観を抱え、
互いを理解することなく、刃を交えてきた。
歴史は語る。
幾度もの戦争。
奪い合い、焼き尽くされ、
生き残るために互いを殺し続けた、果てなき報復の連鎖を。
人間の国々は、各々が孤独に、あるいは束になって魔族と戦い続けた。
それでも、終わりは見えなかった。
なぜなら、魔族は人とは異なる理で生きているからだ。
魔族には多種多様な姿がある。
人と変わらぬ容姿を持つ者もいれば、
獣の牙を携えた者、精霊のように実体を持たぬ者さえもいる。
総じて言えるのは、彼らが“人間より遥かに強く、永く生きる”ということ。
魔法に長け、肉体は頑強で、老いすら緩やかにしか訪れない。
そして、何よりも人間が信じている「正しさ」や「善悪」とは、まったく別の尺度で世界を見ている。
その頂点に君臨するのが、魔王。
選ばれし者のみが辿り着ける、神に選ばれし玉座。
力ではなく、意志でもなく、
“神の声”によって定められるその座は、まさしく神秘にして、畏れの象徴だった。
イリナが知っている魔族の知識は結局のところ、ただの表層に過ぎない。
人間が都合よく噛み砕き、理解したつもりで語る“異種”の物語。
実際にこの地に足を踏み入れた今、
イリナはようやく理解し始めていた。
「これは、未知なのだ」と。
想像していたような暗黒の地ではなかった。
狂気に沈む異形がうごめく混沌でもなかった。
そこには都市があり、整備された街路があり、
子どもが笑い、誰かが朝の水を汲み、
家族が食卓を囲んでいる。
そんな日常が、確かに息づいているように見えた。
魔族の国にも、文化があり、秩序があり、
そして平穏があった。
(……カティア様が連れてこられたのが、この場所で良かった)
その安堵は、イリナの心をほんの少しだけ温めた。
自分が誰で、何のためにここに来たのかを、忘れそうになるほどに。
それでも。
人間と魔族の争いに、ついに終止符を打つように、
魔族の王ラグナスが提示した「休戦」の条件は、あまりに残酷だった。
「聖女を渡せ。その命ある限り、我らは戦を控えよう」
それは人質であり、象徴であり、
何より“平和のために差し出された生贄”だった。
ルヴィエルの聖女カティアは、微笑んで受け入れた。
誰よりも優しく、誰よりも強く。
静かに、穏やかに。
死を覚悟した者の顔で。
そしてこの国は、
彼女を英雄として語り、聖なる犠牲として讃え、
境界の小国は「聖女の故郷」として名声を得るだろう。
誰もが、報いを得る。
彼女ひとりを残して。
イリナはその理不尽を知っていた。
それでも、止められなかった。
なぜなら彼女は「付き人」であり、「影」であり、
そして、密かに平和を得るための剣だったから。
カティアの命が尽きるその日まで。
人の平和は、続く。
だがその命が尽きた瞬間に、すべては終わる。
交わされた盟約の効力は、彼女という“命”そのものに依存しているからだ。
イリナだけが知っている。
自分には、その“次”を築ける可能性があることを。
たとえ魔王を殺したとしても、歴史はまた繰り返す。
新たな魔王が選ばれ、再び争いが始まる。
それは誰よりも、イリナが知っている現実。
だが過去には、例外があった。
かつて、時の勇者が魔王を討ち果たしたその後、
魔族の神から次なる魔王の声が降りるまでには、数百年という空白の時が存在したのだ。
その間、魔族たちは「誰が次代の魔王に選ばれるか」を巡って争い、時には潰し合いさえした。
だが皮肉にも、その混乱の最中――
人間との戦争は、影を潜めていた。
まるで、その存在すら忘れてしまったかのように。
理由はひとつ。
魔族の神に選ばれた“魔王”には、特別な加護が与えられる。
その存在は魔族の手では殺せぬ絶対性を持つ。
だからこそ――
今、魔王を殺すことができるのは、魔族ではない“人間”、すなわちイリナだけだった。
もし、彼女がこの手で魔王を討てば――
数百年にわたる“空白の平和”が再び訪れるかもしれない。
それは決して永遠ではない。
ただの延命にすぎない。
けれど、それでも。
人が生まれ、老い、死に、
子が親になり、また次の世代へと希望を繋げるだけの、
それだけの貴重な時間を、人間たちは得ることができる。
たとえその代償に、カティアも、イリナ自身も殺される未来が待っていたとしても。
イリナは、もともと戦災孤児だった。
家も家族もなく、ただ生き延びるために、危険な仕事を選ぶしかなかった。
そうして闇の世界に身を置き、暗殺者としての腕を磨いていった。
だが、いつしかイリナの家には、自分と同じように帰る場所を失った子どもたちがいた。
狭くても、暖かい場所。冷たい雨から守る屋根。誰かの笑い声が響く朝。
その小さな家は、イリナにとって初めての“居場所”だった。
けれどある日、王宮の重要人物を狙った任務に失敗し、イリナは捕らえられてしまう。
逃れられない罪。
処刑されると思ったその時、イリナに一つの取引が持ちかけられた。
「魔王を殺せ。
――成功せずとも、聖女と共に魔族の国へ向かうこと。それだけで、お前の罪は帳消しになる。
育てていた子どもたちは孤児院で保護され、生活も保障しよう。
これは、国との“契約”だ」
それは、命と引き換えに、未来を守るという提案だった。
魔王を殺す――それはほとんど不可能な任務。
だが、イリナには知識があった。
魔族の王は、神に選ばれた存在。
魔族の手では殺せない。だが、人間なら――
たとえ自分が死んでも、魔王さえ倒せれば、また平和の時間が訪れる。
子どもたちが、戦火に怯えずに暮らせる時間が――。
たったそれだけの未来を信じて、イリナは剣を取った。
この命でできることは、わずかかもしれない。
けれど、それでも。
「この手が汚れても、あの子たちが笑えるなら、それでいい」
そうしてイリナは、“付き人”という仮面を被り、聖女と共に魔王の城へ招かれた。
その胸に秘めた願いは、ただひとつ――
未来に、ほんの少しでも長く、平和が続くように。