血をなぞる指
強固な石壁に囲まれたその部屋は、地下牢よりもはるかに堅牢だった。
出入り口はただ一つ。その鍵を持つのは、イリナだけ。
扉の外には常に複数の見張りが控え、どんな異変も即座に報告される仕組みだ。
だが、部屋の中は明るい。
壁際には高窓が一つ設けられ、そこから差し込む陽光が、白い石床に淡い光を落としていた。
鎖も、拘束も、そこにはない。
必要がないからだ。
この部屋に閉じ込められた者は、ただ“逃げられない”という事実だけで、すでに縛られている。
魔力を遮断する重厚な壁。
外界の音さえ届かない静寂。
それらはまるで、沈黙そのものが罰であるかのような空間を形づくっていた。
そんな中、ミレクトはベンチの上で虚空を見つめていた。
目に焦点はなく、何かを考えているようにも、何も考えていないようにも見える。
感情の色をすっかり手放したような、空の眼差しだった。
そこへ――。
コツン、コツン……
底に響く音が、空気を震わせる。
イリナの靴音。
整った足音が、真っすぐにミレクトの元へ向かってくる。
彼は視線を動かさない。
音の主が誰であるか、最初から分かっていたかのように。
そして、扉が閉まる音とともに、部屋にはふたたび静けさが降りた。
しばらくの沈黙――
やがて、イリナがそっと口を開いた。
「こんにちは」
静けさの中に、柔らかな声が落ちる。
イリナの声に、ミレクトはゆっくりと顔を上げた。
「ああ……ご主人様か」
皮肉の滲んだその言い回しに、イリナはわずかに口元を緩めた。
その顔は、かつて儀式の記憶を語ったときの、疲弊しきった表情とは異なっていた。
目の奥にはかすかに生気が宿り、感情を持つ“人”の顔が戻りつつあるようにも見えた。
「元気そうね」
「おかげさまで」
言葉の応酬は冷ややかでありながらも、どこか馴染んだような空気があった。
イリナは日に何度もこの独房を訪れていた。
最初はただ見守るだけだったが、次第に言葉を交わすようになり――
今では、こうして軽い皮肉を投げ合うこともある。
その中で、イリナは少しずつミレクトの過去を知った。
彼は元々、人間だった。
記憶も、痛みも、すべてそのままに抱えたまま、魔族へと変えられた存在。
彼を魔族に変えた者への憎しみ。
そして、自身の村が戦火に巻き込まれたとき、見捨てて逃げた人間たちへの深い憎悪。
それらが、彼の中にいまも生きていることを、イリナは知った。
『ナグルアに仕えていたのは、僕が先代魔王を支持していたからだ』
そう語ったときのミレクトの声は、淡々としていた。
けれど、そこに込められた真意は、イリナにははっきりと伝わっていた。
――戦うことだけが、居場所だったのだ。
『戦場に出られるなら、それでよかった。誰のためでも、何のためでもない。ただ……そうするしかなかった』
その言葉を聞いたとき、イリナは何も返せなかった。
彼女自身もまた、似たような場所に立っていたことがあるから。
カティアをはじめ、城の者たちは皆、慈悲深いイリナが罪人であるミレクトに悔い改めを促しているのだと信じて疑わなかった。
“彼女なら、きっと誰にでも手を差し伸べる”
――そう思わせるだけの優しさが、イリナにはあった。
だが、イリナはその思い込みを否定もしなければ、肯定することもなかった。
ただ静かに、いつものように、微笑んでみせた。
「今日は、何をする?」
独房の中、ミレクトが壁にもたれたまま問いかける。
その声音にはどこか退屈を紛らわすような、けれどどこか期待するような響きがあった。
「そうね……」
イリナはゆっくりと腰の短剣に手を添える。
それはあの夜、ミレクトに突き立てた刃――
カティアを守るために、恐怖も躊躇も押し殺して振るった剣。
金属が鞘から抜ける微かな音が、静寂を裂く。
そしてイリナは、ミレクトとの間にある格子の鍵を外した。
ぎ、と重い音を立てて扉が開かれる。
ミレクトは動かない。
ただ、その姿を見つめていた。
いや――それは、静かな観察ではなかった。
彼の瞳には、まるで期待にも似た光が宿っていた。
イリナは無言のまま彼に近づくと、
その胸元、あの夜に自らが刻んだ傷跡をなぞるように――
迷いなく、短剣を突き立てた。
鋭く入った刃先が肉を裂き、鉄の匂いが空気を染める。
ミレクトは呻きもせず、ただイリナを見つめたままだった。
その目に浮かんでいたのは、苦痛ではなく、確かな“納得”の色。
イリナの顔には、やはり変わらぬ穏やかな笑みが浮かんでいた。
人間とそう変わらぬ姿をしているミレクトだが――その身体はやはり魔族のものだった。
イリナの短剣は確かに彼の胸を貫いた。
だが、傷は浅く、致命傷には至らない。
あの夜、刃に忍ばせていた毒もまた、一時的に意識を奪うには足りたが、命を奪うほどではなかった。
イリナは改めて思い知る。
――私は、戦いでミレクトを倒したのではない。
これまで暗殺者として魔族を殺したことはある。
けれどそれは、人間の中に紛れ込むために力を抑えていた者たちを、不意を突いて仕留めただけだった。
真正面からぶつかり合ったあの夜、ミレクトに刃が届いたのは、偶然に過ぎなかった。
その事実が、静かに、しかし容赦なくイリナの胸に突き刺さる。
ミレクトは、自らの胸に残る傷跡にそっと指を這わせた。
まるでそれを――愛おしむかのように。
「君に殺してもらえる相手が、羨ましいよ」
その声音には、皮肉とも諦めともつかぬ響きがあった。
イリナは、ある日ふと漏らすように言った。
『――私には、殺したい相手がいるの』
それが誰なのかは明かさなかった。
けれど、その言葉の奥にある静かな激情を、ミレクトは確かに感じ取っていた。
最初の頃こそ、彼はイリナの問いかけにも無愛想で、協力的ではなかった。
だが、彼女に逆らったり殺したりすれば、次に待っているのはただ確実な「死」。
それを悟ってからのミレクトは、次第にこの奇妙な関係に順応し、
ときに会話を楽しむような素振りすら見せるようになっていった。
まるで自分の命運すら、彼にとっては退屈しのぎの道具に過ぎないかのように。
イリナは、傷口に指を這わせたミレクトの赤く染まった指先に視線を向けた。
――やはり彼も、元は人間だったのだと、改めて実感する。
魔族の中には、血の色が異なる者も少なくない。
だからこそ、人間に有効な毒が、彼らにはまるで通じないこともあった。
そんな思考に囚われ、ほんの一瞬の隙――その刹那、ミレクトは音もなく背後に回り込み、彼女の手から短剣を奪い取った。
「……何を考えてたの?」
囁くような声。
イリナは瞬きもせず、ただ淡々と答える。
「……ミレクトの血が、赤いなって」
それを聞いたミレクトは、ふと表情を緩めた。
そして再び、自らの胸の傷口を撫で――滲んだ血を指先に絡める。
そのまま、後ろから抱きしめるように腕を伸ばすと赤く染まった指先で、彼女の唇をなぞった。
熱はない。けれど、生々しい。
ふたりの間に、どこか壊れかけた静寂が満ちていく。
「今日は僕の勝ちだね」
ミレクトが微笑みながら言う。
「ええ、そうね」
イリナは淡く微笑みを返したが、その表情にはどこか熱のない静けさが漂っていた。
まるで勝敗など、最初からどうでもいいと言わんばかりに。
彼女の唇には、ミレクトの血がまだかすかに残っている。
深紅の痕が、白磁のような肌に生々しく滲む。
ミレクトは、その唇を――そしてその無関心さえも――愛おしげに、背後から抱くような眼差しでじっと見つめた。
ただ、壊れそうなものを見守るように。
そこには、奇妙な距離感と、痛ましいほどの執着が静かに滲んでいた。




