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聖女を愛した魔王は、私に死を望んだ  作者: 源泉


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生まれ損ねたもの

夢の中。


イリナの意識は、ふわりと浮かぶように霧の中を漂っていた。


思考はぼやけ、現実との境界は曖昧だ。けれど、ミレクトに噛まれた指先の痛みだけが、かすかに現実を引き留めているように感じられた。

その痛みが、彼女をこの夢に繋ぎ止めている“鎖”のようだった。



やがて霧が晴れる。


そこは、どこまでも閉ざされた空間だった。



荒く削られた石の壁。湿った土の匂い。

天井は低く、身を屈めなければならないほどに狭い。

あの魔王の城の牢よりも、さらに窮屈で、陰鬱で、そして――死の気配が濃かった。


イリナは息を詰める。

その場所に、ひとりの少年の姿があった。



――戦場で泣いていた、あの子。



無意識に手を伸ばす。けれど、その指先は霧のようにすり抜け、何も触れられなかった。

まるで彼女は、ただの“観察者”としてここに在るかのように。


そのとき、部屋の扉が乱暴に開かれた。


外から、数人の子どもたちが投げ込まれる。

年格好はみな、少年と同じくらい。

やせ細った体。汚れた顔。目の光は既に消えかけていた。



「しかし、人間の子どもばかり集めてどうするんだか」


「さあな。俺たちには関係のねぇ話だ」



扉の外、魔族の兵士たちの声が遠ざかっていく。


子どもたちは誰ひとり泣かなかった。

泣く力も、感情も、すでに削がれていたのかもしれない。


ただただ、壁際で小さく膝を抱え、身を寄せ合いながら、うつろな瞳で何かを見ていた。



イリナは言葉を失う。

目の前の光景が、ただの夢とも、記憶ともつかない曖昧なものだとしても――



この空間には、確かに痛みと恐怖があった。


そしてその痛みが、ミレクトの記憶であることを、彼女は何となく理解していた。




――場面が変わる。


霧の向こう、次に現れたのは別の部屋だった。


冷たい石の床には、赤黒く染まった魔法陣が描かれている。

それが何で描かれたものなのか、直感的に分かってしまいそうで、イリナは目を逸らしたくなった。


魔法陣を囲むように、何人もの魔族たちが立ち尽くしていた。

長いローブに隠された姿は異形めいていて、その目元に浮かぶのは、感情ではなく“観察する者”の無機質な光。


あの牢で見た子どもたちが、一列に並べられている。

その先頭の一人が無理やりに、魔法陣の中央へ押し込まれていった。


部屋の空気が、唐突に震えだす。


不気味な呪文の詠唱が、複数の声で重なり合い、低く、ねっとりと響き渡る。

言葉にならない言葉が、まるで空間そのものを侵食していくかのようだった。


やがて、魔法陣の線から――赤黒い“糸”のようなものが這い出してくる。



それは、まるで生き物のように蠢きながら、中心に立つ子どもへとゆっくり、しかし確実に伸びていく。

細く、長く、無数に。

ときに絡まり、ときに引き裂きながら、異様なうねりを持って近づいていく。



子どもは逃げなかった。



恐怖に満ちた瞳をしていたにも関わらず、一歩も動こうとはしなかった。

まるで、そうなる運命だと知っているかのように。



そして――



赤黒い糸のような何かが、その身体を包み込む。

見る間に子どもの姿はそれに呑まれ、輪郭さえ見えなくなっていく。


その瞬間だった。


もがくように、子どもの四肢がバタつく。

助けを求めるかのように、あるいは命そのものが最後の抵抗を見せるように。


けれど――何も起こらない。


誰も助けに来ない。誰も叫ばない。

ただ、赤黒い“糸”だけが淡々と、その生命を呑み込んでいく。


やがて動きが止まり、糸が静かに溶けるように床へ消えていった。



そこにはもう、何も残っていなかった。


まるで、その子どもが最初から存在していなかったかのように。

次々と、子どもたちが魔法陣へと押し込まれていった。



そのたびに――赤黒い糸が這い出し、じわじわと子どもたちを覆っていく。



ある子は、糸に絡まれる前にその締め付けで体を引き裂かれた。

ある子は、最後の最後まで泣き叫び、抵抗をやめなかった。


だが、結果は同じだった。



誰かが低く呟く。



「……また失敗か」



無感情に、機械のように繰り返されるその言葉が、やけに空虚に響いた。



そのとき――イリナの意識が、ひとりの少年と重なっていた。

それは、あの最初に見た戦場で泣いていた少年――ミレクト。


視点だけではない。

心に押し寄せる恐怖、冷えきった床の感触、張り裂けそうな胸の鼓動。

それらが、まるで自分自身の感覚のように鮮明に流れ込んでくる。



やがて、ミレクトのすぐ前に並ぶ少年が、魔法陣の中央へと引き出された。



流れは同じ。

詠唱が始まり、魔法陣から這い出る“糸”がその少年を捕らえる。

そしてその体が、赤黒い影のように染まりはじめた――が。



異変が起こった。



膨れあがった影は、これまでの子どもたちとは異なり、人の姿よりも遥かに巨大な何かへと変質していく。

表面を覆う糸の合間から、わずかに内側が覗いた。



蠢く肉塊――


それは、まるで内側から捻じ曲げられた肉体だった。

確かに、先ほどまで“少年”だったはずの体。

覗いた“中身”は、臓腑か、骨か、あるいは――すでに名前のない“何か”だった。

それが、皮膚の内側でうねり、膨張し、ひび割れ、形を変える。

少年だった肉体は、それを収めきれず、軋んだ。



苦痛に満ちた呻き声が、地の底から湧くように低く、深く響き渡る。



その場の空気が、一瞬にして期待と緊張に染まった。



――成功するかもしれない。



そんな気配が、言葉にならないまま漂った。


だが次の瞬間。


“それ”は、音もなく爆ぜた。



肉も骨も、影も糸も。

全てが霧散し、空気に溶けるように消えていった。



ミレクトと重なるイリナの頬を、飛び散った血がぬるりと伝う。




生温かい感触に、思わず呼吸を止める。


そして、部屋を包む空気が、期待から一転して、深い落胆へと沈む。



誰も何も言わなかった。

ただ、次の子どもが魔法陣へ引き出されるまでの、わずかな沈黙が落ちるだけだった。



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