表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女を愛した魔王は、私に死を望んだ  作者: 源泉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/36

霧の奥には

イリナの身体が癒えていくにつれ、目を覚ましていられる時間も少しずつ伸びていった。

だが、目覚めるたびに胸の奥で静かに燻る想いもまた、確かに膨らんでいく。


寝かされていたこの部屋は、城の中ほど、窓のない静かな一室。

あの日、侵入者と対峙した場所からは遠く離れている。

きっと、あの出来事を思い出させないようにという配慮なのだろう。


その間、カティアはかつて過ごしていたあの部屋には戻れず、ラグナスの私室で過ごしていると聞かされた。

イリナの治療のため、ラグナスはこの部屋を度々訪れ、

そして彼が席を離れるときには、代わりにカティアが傍にいてくれたのだという。


優しかった。

ふたりとも、変わらず。


だからこそ、苦しかった。



ラグナスが額に手を当て、魔力で霧を拭うたびに、

あの静かな瞳で「無理をするな」と囁かれるたびに、

胸の奥に知らぬ熱が、かすかに灯っていくのを感じていた。



それが何なのか、イリナにはまだわからなかった。

けれど、それが“あってはならない”ものだということだけは、はっきりとわかっていた。


カティアは、今も変わらず傍にいてくれる。

やわらかな手で冷えた額に触れ、昔のように小さく微笑んでくれる。


その優しさが、嬉しくて、苦しかった。



(……どうして、こんなに……)



自分の中で交差する思いの色を、イリナは言葉にできない。

ただ、胸の内でチリチリと燻る熱を、必死に抑え込む。


この想いが顔に出てしまったら。

誰かを傷つけてしまいそうで――怖かった。


だからせめて、心の奥に沈めたままにしておこうと、そう思った。


誰にも知られないように。

自分さえ、気づかないふりをしていられるように。




その夜、わずかな明かりだけが静かに揺れていた。

イリナは寝台に身を預けたまま、そっと目を開ける。


扉の軋む音。

誰かが入ってくる気配がした。

足音は静かで、ゆっくりと。

まるでためらうように、近づいてくる。


その気配に、イリナはすぐに気づいた。



「……カティア様」



小さく名を呼ぶと、足音が止まり、そして闇の中に優しい微笑みが灯った。



「起こしてしまったかしら?」


「いえ……眠っていたわけではありませんから」



イリナがそう返すと、カティアはそっと椅子を引いて、寝台の傍らに腰を下ろした。

ほんの少し肌寒い夜だったが、彼女の気配はどこか、春の陽だまりのように柔らかだった。



「……ありがとう、イリナ」



その声は、静かに――けれど確かな想いを込めて発せられていた。



「あなたがいてくれたから、私は無事だったの。

あの霧の中、ずっと私を守ろうとしてくれていたこと……聞いたわ」



イリナの胸が、ふっと締めつけられる。



「……そんな……」



うつむいたまま、言葉が続かなかった。


カティアの目はまっすぐに、曇りひとつなくイリナを見つめている。

その真摯な眼差しが、自分を疑わずに信じていることが、イリナには痛いほど伝わってきた。



「イリナの中に残った霧が、すごく厄介で……、手を焼いたって、ラグナスが言ってたわ」



その名が出た瞬間、イリナの心に小さな波紋が走った。



(……ラグナス様)



意識していないはずなのに、気づけば心の中に浮かんでいる。

彼の声、表情、手の温もり――

そして、何よりもカティアの隣に立つ姿。



(……私は、何を考えているんだろう)



自分を戒めるように、心の中でそっと問いかける。

ラグナスは、カティアにとって――何より大切な人。

その関係を知っているはずなのに、自分の胸に芽生えたこの感情に、名を与えることすら怖かった。



「……カティア様を守ることができて……本当に、よかったです」



そう告げた声には、かすかな震えが混じっていた。

けれど、それを隠すように、イリナは精一杯の微笑みを浮かべた。


カティアは、ふわりと手を重ねてきた。

その手のぬくもりが、イリナの胸に滲んでいた罪悪感を、そっと包み込む。



「これからも、そばにいてね。

……もうイリナは、私にとって……かけがえのない友達だから」



その一言が、イリナの胸の奥に深く沁みていく。

こんなにも真っ直ぐな信頼を向けられていることが――嬉しくて、つらかった。



(……私の心は、あなたを裏切っているのかもしれない)



言葉にはできなかったその想いが、静かに、心の奥で疼き続ける。




その日、ラグナスは静かに言った。



「これが……最後の治療になる」



その言葉に、イリナの胸がわずかに揺れた。



ラグナスと二人きりで過ごすこの時間。

それが終わりを迎えるということに、胸の奥に名残惜しさが灯る。

同時に、どこか安堵のような感情もあって――


その矛盾に、自分でも戸惑っていた。


ラグナスは、治療の魔法を施しながら、ふと手を止めた。

言い淀むように、けれど何かを決意したように、口を開く。



「……治療に影響するかと思って、これまでは言わなかったが」



短い沈黙のあと、彼は続けた。



「あの男、ミレクトは生きている。今はこの城の地下に捕らえている」



イリナは、息を呑みながらも、黙ってその続きを待った。

ラグナスはイリナの反応を確かめるように目を伏せ、そして静かに言う。



「ナグルアにこの件を報告したところ……

“あれは個人の暴走だ。処遇は任せる”――そう言われた」



その声には、わずかに疲れと苛立ちが混じっていた。


ラグナスはそれ以上、何も言わなかった。

けれど、その背には確かな重みがあった。

国と国のはざまで、魔王としての立場と、個人の感情――

そのすべてが、彼の肩にのしかかっていることを、イリナは感じ取っていた。


そして自分自身の中にも、未だ拭えぬ霧のような葛藤が残っていることを、改めて思い知らされる。



「……彼と、話すことはできますか?」



治療の光がまだ微かに揺れている中、イリナはそっと問いかけた。


ラグナスは一瞬、動きを止める。

その表情には、確かな戸惑いの色が浮かんでいた。


けれど、やがて彼は静かにうなずく。



「ああ……今の彼は、力を封じられ、自由も奪われている。

危険はないはずだ」



そう言いながらも、ラグナスの声音には微かな揺れがあった。

それは、ただの警戒ではなく――

人としての、魔王としての、優しさやためらいが滲んだ揺らぎだった。


イリナはその揺れを、言葉にはせず受け取った。


しばしの沈黙ののち、再び口を開く。



「……ラグナス様。

人間が、魔族になるというのは……あり得るのでしょうか」



その問いは、まるで自分の中に沈んでいた霧を確かめるように、静かに放たれた。



あの悪夢の中で――

焼けた街の中で泣いていた、ひとりの少年。

角も牙もなく、霧も纏っていなかった。

ただ、絶望の中で膝を抱えていた、人間のミレクト。


夢にすぎないかもしれない。

だが、それはあまりにも“真実”のように思えた。


ラグナスはすぐには答えなかった。

けれど、その瞳の奥に一瞬だけ深い影が落ちたことを、イリナは見逃さなかった。



「……なぜ、そんなことを訊く?」



ラグナスの問いに、イリナはわずかに目を伏せる。

言葉を慎重に選びながら、静かに答えた。



「……彼の霧が、私に“夢”を見せました。

そこには、まだ幼い人間の姿をしたミレクトがいて……

焼けた街の中で、家族を失い、ひとりで泣いていたのです」



ラグナスの視線がわずかに鋭さを増す。

だが、イリナは逸らさず、まっすぐに彼を見つめて続けた。



「もし、あれが彼の過去――

戦火の中で絶望し、彷徨った末に“魔族”になったのだとしたら……

私も同じように、運命を違えていたかもしれないと、そう思ってしまったのです」



その声には、共感と、深い恐れが入り混じっていた。


ラグナスは、しばらくのあいだ何かを思案するように黙していたが、やがて低く、静かに口を開いた。



「……死んだ人間の、浮かばれぬ魂が“アンデッド”に変異することはある。

だが人間が“魔族”になるのは、今の世界では禁じられた呪法だ」



その言葉は重く、過去の歴史を遠く背負ったようだった。



「存在は……するんですね、その呪法が」



イリナの呟きに、ラグナスは答えなかった。

ただ、沈黙の中に確かな肯定があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ