蒼の祈りと霧のはざまで
焼け焦げた木々の匂いが、鼻を刺す。
耳をふさぎたくなるほどの泣き声と、誰かのうめき声が遠くで響いていた。
イリナは、泥にまみれた地面に膝をついていた。
背後には、崩れかけた石造りの家。
前には、焼け落ちた街並み。
遠く、炎の揺らめきが、夜を紅に染めていた。
彼女は小さかった。
手も足も細く、痩せ細った身体で、ただただ涙を流していた。
この光景は覚えている。
忘れたくても、忘れられない。
自分が“戦災孤児”として拾われる前の、最も古い記憶。
(……ああ、これ……)
思考がまとまらないまま、涙だけが止まらない。
だがそのとき――
泣き声が、自分のものだけではないことに気づく。
イリナの目が、ぼんやりと揺れる視界の先へと向かう。
そこに、同じように泥にまみれ、瓦礫の下に蹲る、少年の姿があった。
膝を抱え、肩を震わせて、声を殺して泣いている。
(……誰?)
イリナが歩み寄ると、少年は顔を上げた。
涙で濡れた頬、赤く腫れた目――
だが、その中に見覚えのある“形”があった。
ミレクト。
だが、それは先ほどまで対峙していたミレクトではなかった。
人間の姿をした、まだ幼い少年。
角も、爪も、霧も纏っていない。
人間として、絶望の中で泣いている、ただの子ども。
(……これは……ミレクトの……?)
風景がゆっくりと揺らぐ。
焦げた匂いが薄れ、音が消えていく。
だが光景は続く――
少年は一人きりだった。
誰も助けに来なかった。
炎の向こうから聞こえるのは、略奪者の笑い声。
倒れている者たちの冷たい手を掴んで、何度も揺さぶり、何度も呼んでいた。
「かあさ……ん……」
その声は震えて、弱々しく、だがどこまでも痛かった。
イリナの胸が、じくりと軋む。
この記憶が真実かどうかは、わからない。
ミレクトが“人間”だったという確証も、何もない。
けれど――これは、ただの夢ではない。
そう、イリナは確かに感じていた。
霧のように柔らかく侵入してきたミレクトの力。
その一部が、彼自身の過去を写しているとしたら。
(……あなたも、泣いていたんだ)
イリナの視界が、ぼやけていく。
夢の底から、意識がゆっくりと浮かび上がっていく。
焼けた風景が薄れ、瓦礫が霧に飲まれて消えていく。
ただ、泣いていた少年の顔だけが、なぜか最後まで、胸に残った。
イリナは、薄く目を開ける。
まだ現実には戻りきっていない。
だが、自分の中にある霧は、確かに今、静まりつつあった。
ぼやけた視界に、淡い光が差し込んでいる。
だがその光景には、見覚えがなかった。
ここはカティアと共に過ごしていた、魔王城の一室ではない。
かつて“家族”と暮らした、古びた家でもない。
無機質で、けれどどこか静謐な気配に満ちた空間。
(……どこ……?)
ゆっくりと視線を動かすと、すぐ傍らに、人影があった。
誰かが、ベッドの傍で膝をつき、静かに俯いている。
その姿には、確かに見覚えがあった。
銀の髪が微かに揺れ、深い闇を湛えた瞳が伏せられている。
まるで祈るように、あるいは、何かを願うように――
イリナの唇が、かすかに動く。
「……ラグナス様……?」
掠れた声が、空気を震わせた。
その瞬間、俯いていた影が、ゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
確かに――そこにいた。
魔王、ラグナスが。
だが、その瞳に宿るのは、これまでイリナが知る彼とはまるで異なるものだった。
威厳でも冷酷でもない。
憔悴しきったように弱々しく、そして、ひどく深い哀しみを湛えていた。
まるで、自らの無力さに打ちひしがれたような、そんな眼差し。
その表情の意味を探るよりも先に、イリナの唇が自然に動いていた。
「……カティア様は……?」
声は掠れ、かすかに震えていた。
意識の奥底ではまだ、あの霧の悪夢の余韻が揺らいでいる。
けれど、イリナの心はただ一つを求めていた。
ラグナスの顔が、微かに揺れた。
「……カティアは無事だ。君が、守ってくれたからな」
ラグナスの低く静かな声が、空気を震わせる。
その一言に、イリナの胸がふっと緩んだ。
喉の奥で詰まっていた何かが解けていくように、彼女は小さく息を吐く。
体を起こそうとした。
だが、次の瞬間、視界がぐらりと傾いだ。
天井が回る。
頭の奥がずしりと重く、ベッドに体ごと引き戻されるように、イリナは再び身を沈めた。
「無理をするな。君は三日ものあいだ、眠っていたんだ」
その言葉に、イリナの瞳が驚きに見開かれる。
三日も――?
ラグナスは続ける。
その声音には、静かだが深い悔恨がにじんでいた。
「今回の件は、すべて私の油断が招いたものだ。
城の結界を固めていたとはいえ、侵入された後のことを――考えが足りなかった」
イリナは首を横に振ろうとする。
しかしまだ意識はぼんやりとした霧の中にあり、思考の糸を手探りでたどるように、言葉を絞り出す。
「いえ……ラグナス様……」
一言ひと言が、舌に重い。
「……あの男は、人間を……私を殺すのが目的で……。
私がこの城にいたせいで……カティア様が……」
言葉の終わりと同時に、ラグナスの表情がわずかに、しかし確かに変わった。
その双眸に、険しさが宿る。
まるで、自らを責めるイリナの言葉さえ――許せないかのように。
「それは、結果論だ」
ラグナスの声には、怒りではない。
だが、確かな強さと、断固とした意志が宿っていた。
「もし……奴が初めからカティアを狙っていたとしたら?
それに、君が傷ついていいという理由にはならない」
その言葉が、静かに部屋の空気を震わせた。
イリナは、しばらく言葉を返せなかった。
瞳を伏せ、何かを飲み込むように呼吸を整える。
――どうして、この人は。
そんな問いが胸を過ぎる。
だが、それもすぐに消えた。
「……君の目的は、私を殺すことなんだろう?」
ふと、ラグナスが言った。
その瞳は真っすぐで、揺れていなかった。
イリナの頬に、ごくわずかに笑みが浮かぶ。
「……忘れてくれた方が、都合が良いんですけどね」
声は掠れていたが、その調子には確かに生気が戻りつつあった。
ラグナスは微かに目を細めると、再びその手をそっと掲げた。
「まだ……治療は終わっていない。君の中には、まだあの霧の残滓が残っている」
イリナが三日も眠っていたというのなら、その間、誰かが彼女を治療していたはずだ。
イリナが問いを紡ぐ前に、ラグナスの手のひらから、ふわりと光があふれた。
蒼く、澄んだ光だった。
どこかで見覚えのある色――
――あの、蒼いドレス。
それと同じ、優しく、深く、あたたかな光。
イリナの視界に広がる光が、すべてを包み込むように満ちていく。
まぶたが自然と閉じる。
意識は静かに、深く沈んでいく――けれどそれは、恐怖に囚われた眠りではなかった。
あの悪夢ではなく、
安らぎに抱かれる、穏やかな休息。
その最後の瞬間、イリナの唇に微かな安堵の笑みが浮かんだ。




