歪んだ夜に、刃を
イリナは背後の気配に反応し、跳ねるように身を翻した。
手にした短剣が閃き、空気を裂く。
だが、そこには誰もいなかった。
「おしいねぇ」
くすくすと、ねじれた笑い声が、今度は真後ろから響いた。
霧が音を反響させているのか、方向さえも曖昧だった。
(……翻弄されてる)
イリナはすぐに体勢を整えたが、心の奥で冷たい予感がじくじくと広がっていく。
彼女はこれまで、“暗殺”という一点において研ぎ澄まされてきた。
忍び寄り、気取られず、命を絶つ。
真っ向からの戦いではなく、背後からの一撃。
それが彼女の生きる術であり、戦いの流儀だった。
だが今―目の前にいるのは、“遊び”の延長で人を殺すことを厭わぬ魔族。
しかも、幻術のような霧を自在に操る相手だ。
(私は……正面から挑む戦士じゃない)
イリナの喉がひとつ、乾いた音を立てる。
彼女の任務は、あくまで“監視”と“抑止”。
万が一の時は、命を賭してカティアを守るその覚悟もある。
だが。
(……カティアに手を出さないのであれば)
戦う理由を、見失いかけていた。
自分がここで死ねば、すべてが終わる。
それだけで、少なくとも今夜は静かになるかもしれない。
カティアは少しは、自分のことを、思ってくれるだろうか。
ふと、そんな諦めに近い感情が、イリナの胸をかすめた。
そのときだった。
霧の中から、ぬるりと何かが這い出すように。
ミレクトが姿を現したのは、カティアのベッドのすぐ傍だった。
「……ああ、いい顔になってきたね、イリナ」
ミレクトはまるで舞台の幕が下りるのを待っていた役者のように、静かに、優雅に歩を進める。
彼の足音はなく、霧の中に溶けて消えていく。
そしてカティアの眠るベッドの縁に、爪の伸びた指先がそっと触れられた。
「殺しはしないって、約束したよ」
ミレクトは、甘やかな声でささやいた。
「……でも、どのくらいなら“魔王様”に気づかれずに、カティア嬢を“傷つけられる”か……試してみたくなるよね?」
その言葉と同時に、彼の指先から伸びた爪がするりと動いた。
カティアの纏う寝衣の布地が、まるで薄氷が割れるような音を立てて裂けていく。
ふわりと舞う布の間から覗いた白い肌。
そこに、霧が絡みついた。
水気を帯びたそれは、まるで生き物のように肌を舐め、ぬるりと這いまわる。
イリナはその場で凍りつく。
冷気ではなく、怒りと恐怖と――そして、どうしようもない無力感で。
イリナの体内で、何かが強く軋む音がした。
それは、戦う意味を一度手放しかけた心が、再び反応した証だった。
「やめろ……!」
イリナの声が、張り詰めた空間に鋭く響く。
だがミレクトは、それすらも楽しんでいるかのように微動だにせず、背を向けたまま笑みを深めた。
彼の指先が、そっとカティアの頬へと滑る。
爪ではない、あえて“肌”で触れるように。
柔らかな白肌を撫でるように、蠢くその動きには、どこか嗜虐的な執着がにじんでいた。
カティアの眉が、かすかに動いた。
深い眠りの中、どこか不安げに、痛みにも似た何かを感じ取るように。
「いつまで“聖女様”でいられるのかな?」
ミレクトはくすくすと喉を鳴らす。
その声は甘く、舌を絡めるようにねっとりとした響きを含んでいた。
「まだ、ラグナスには抱かれていないんだろう」
その言葉と同時に、指がするりと鎖骨へと降りていく。
喉元の繊細な皮膚を撫でながら、愉悦に濡れた瞳がカティアの顔を見下ろしていた。
イリナの背中を、冷たい悪寒が這い上がる。
だがそれは恐怖ではない。
むしろ、幼い頃から幾度となく感じてきた“あの視線”――
生き延びるために避け、斬り捨て、ただ無視してきた本能的な敵意。
けれど今、それがカティアに向けられている。
あの無垢な少女を汚そうとする手を見て、怒りが、嫌悪が、爆ぜるように胸に広がった。
これまで抱いたことのない、烈火のような感情が、イリナの心を突き動かす。
冷たく沈着な彼女にとって、それは異常とも言える衝動だった。
手の中の短剣が、かすかに震えた。
それは迷いでも、恐れでもない。
“殺意”に近い、感情の噴き上がり。
怒りは、思考を熱くするどころか――むしろ、凍らせた。
胸に煮えたぎる激情とは裏腹に、イリナの脳は静まり返るような冷たさを取り戻していた。
感情の熱を、戦いに必要な“冷静”へと変換する。それが彼女の本能だった。
カティアへと手を伸ばすミレクトの姿。
その指先が肌を撫で、笑みを貼りつけて愉悦に浸る。
その姿には、もう“気配”がない。
幻影。
イリナの直感が、そう告げていた。
本物は背後にいる。
皮膚の上をなぞるような霧の動き。
空気が静かに、しかし確実に膨らみ、そこに「在る」気配だけが濃くなっていく。
それでもイリナは、気づかぬふりを貫いた。
怒りを隠さず、むしろそれを利用して、カティアに手を伸ばす“幻”に声をぶつけ続ける。
「……それ以上、触れるな」
抑えた声の中に込められたのは、本物の殺意。
そして確かな“誘い”。
背後の気配が変わる。
柔らかく、にじむようだった霧の動きが、瞬間――鋭さを帯びた。
気配が“殺意”へと転じるのが、空気の圧で分かる。
(今だ……!)
イリナの膝が弾ける。
その動きは、獣のようにしなやかで、刃のように鋭い。
反転。
その勢いをそのまま、逆手に構えた短剣へと乗せる。
「――っ!」
霧を裂き、空気を断ち、
イリナの刃が、背後から迫るミレクトの“本体”を正確にとらえ――叩き込まれた。
手応えが、あった。
刃が何かを裂いた。肉の抵抗、骨をかすめたかもしれない硬質な手応え。
だが、浅い。
一瞬の手応えに続くはずの断末魔は、訪れなかった。
刃の先に伝わったのは、表皮を裂くだけの微かな重さ。致命には遠い。
(……足りない)
イリナは刃を抉るように力を込めた。
もう一歩、深く。
そう思った瞬間だった。
ガシッ、と。
握っていた短剣ごと、手首をつかまれた。
(――っ!)
反射的に肩が跳ね、腕を引こうとするも遅い。
そのまま骨ごと折られるか、地に叩きつけられるか。
身構えたイリナの中に、瞬間的に“覚悟”が走る。
しかし。
痛みは、来なかった。
代わりにあったのは、引き寄せられる感覚。
ぐっと力強く、だがどこか丁寧にも感じる動きで、ミレクトはイリナの腕を引いた。
次の瞬間、イリナの視界いっぱいに広がったのは、歪んだ笑みを貼りつけた彼の顔。
吐息が触れるほどの距離。
赤く光る瞳が、イリナの双眸をまっすぐに射抜く。
「いい動きだったよ」
ひときわ甘く、囁くように。
「――次は、僕の番だ」
その一言のあと。
痛みも、暴力も、何も訪れなかった。
ただ。
ミレクトの目から目が離せなかった。
視線が、絡みつく。
心の奥に指を差し込むように、彼の“視線”が、脳に食い込んでくる。
(……なんだ、これ)
イリナの意識の中に、何かが流れ込んできていた。
重くもない、熱くもない。
ただ、どこまでも“生ぬるい”。
それは、霧だった。
だが今度は外からではない。内側から――頭の中を這い、広がっていくような感覚。
思考を掬い取るように、撫でるように。
記憶の端をなぞる。感情をくすぐる。
まるで脳を柔らかく撫で上げるような、底知れぬ不快感。
イリナの指先から、力が抜けていく。
握っていた短剣さえ、重くなる。
イリナの指先から、力が抜けていく。
握っていた短剣すら、手の中で鉛のように重くなる。
視界は霞み、足元がふわりと揺れる。
それでも、かすかに映った最後の光景だけは、焼きついた。
ミレクトの苦悶の表情。
赤く染まった唇の端から、ひと筋、鮮やかな血が零れていた。
魔族にどれほど効果があるかは分からなかった。
だが、毎日、欠かさず塗り続けてきた毒――
その一滴が、確かに届いていた。
イリナの手を掴んでいたミレクトの力が抜けていく。
彼の体が、重力に引かれるように崩れていくと同時に、部屋に満ちていた霧もまた、音もなくほどけ始めた。
空気が静かに澄み、輪郭を失っていた現実が、少しずつ形を取り戻していく。
イリナは、床に崩れ落ちたミレクトに、最後の視線を向けた。
その顔に貼りついていた不気味な笑みは、すでに半分ほど剥がれていた。
そして、自身の身体も限界を迎える。
がくりと膝が落ち、力なく床へと沈む。
だが、それは敗北ではなかった。
その瞬間だけは、確かな“勝ち”だった。
――ただ、終わったわけではない。
イリナの中に注がれていたミレクトの霧。
それは本体が倒れた今もなお、制御を失ったまま、意識の深部を暴れまわっていた。
頭の中をなで回すような、粘ついた霧の感触。
記憶と理性の境界をかき混ぜながら、どこまでも、どこまでも這い回る。
けれど。
イリナの唇が、微かに弛んだ。
それは、痛みや苦しみとは違う。
どこか、安堵にも似た表情だった。
(カティアを――守れた)
その想いと共に、イリナは静かに、意識を手放した。




