霧の中の遊戯者
「……驚いたよ」
まるで月明かりの中に滲む悪夢のように。
その男はゆっくりと姿を現しながら、声だけを先に響かせた。
その表情には、昼間に見せていた“従者”の仮面など、欠片も残っていない。
口元は不自然に歪み、目は爛々と赤く輝き、何かが壊れてしまった者だけが見せる“笑顔”を貼りつけていた。
「イリナ、だったかな。ああ……、僕の名前はミレクト。
君は視えるんだね。僕の霧に紛れても、完全には惑わされなかったみたいだ」
まるで称賛するかのような声音。
だがその奥には、嗜虐と興奮が交じり合い、ぞわりとした嫌悪を孕んでいた。
「来訪のときから、すでにこの城には“霧”を流していたんだ。ほんの少しだけね。
誰にも悟られないように、自分の存在すら薄めて……霧だけを」
ミレクトと名乗ったその男は、窓辺に背を預けるように立ち、楽しげに語る。
その動きには余裕しかなく、まるでこの空間すべてが自分の掌中にあるかのようだった。
「ナグルア様には、一応仕えてるよ。恩もあるし、忠誠もね。
でも――今夜のこれは、あの方には内緒だ。僕個人の、“気晴らし”」
イリナの手に握られた短剣が、わずかに震えた。
それに気づいているのか、いないのか。
ミレクトは首をかしげるようにして、笑う。
「人間との戦……素晴らしい時間だったよね。人間も魔族も、死に向かって必死でさ。
あの瞬間の、命の熱。ほんと、たまらなかった」
彼は目を細め、うっとりと陶酔するような表情を浮かべた。
「人間は数だけはたくさんいる。普通に殺すだけでもいいけど……
“何かを守ろうとする”彼らの気持ちごと、踏みにじったときの快感――あれは格別だよ」
その言葉に、イリナの背に冷たい汗が伝い落ちる。
「でもさあ……ラグナスが和平なんて始めたせいで、僕は“それ”を奪われた。
好きなように殺すことが、許されなくなったんだ」
声は変わらず穏やかで、むしろ静かにさえ感じられた。
だが、その中に滲む狂気は、鋭く、確実にイリナの神経を刺してくる。
「だけど、この国にいる人間は……別だろう?」
声の調子がぐっと低くなると同時に、窓の外の霧が再び動いた。
音もなく滑るように入り込み、床へ、壁へ、天井へと這い広がっていく。
「協定の範囲外。魔王の目も届かない。いや、届かせないようにしてる。
この“霧”の中じゃ、何が起きても外には漏れない」
そして――ミレクトは唇の端を吊り上げた。
「もちろん、カティア嬢には手を出さないよ。
彼女が死ねば、ラグナスがここに来てしまう。それは困る。
遊びが途中で終わっちゃうからね」
その視線が、じり……とイリナに定まった。
熱を孕んだ赤い瞳。
それは獣のように野性味を帯びながらも、異様に“人間くさい”欲望の匂いを漂わせていた。
「だから、イリナ。……ねぇ、僕と遊ぼうか?」
その言葉が落ちた瞬間、床に広がっていた霧がざわりと揺れる。
まるで意思を持つ生き物のように、じわじわと部屋の隅々へと這い、絡みついていく。
カーテンが揺れ、天蓋が震え、壁が、床が、わずかに歪む。
部屋の輪郭そのものが、どこかおかしくなり始めていた。
イリナは息を詰める。
霧は“幻覚”をもたらす。
先ほどの錯覚――“カティアを抱いていると思っていた腕の中にあった、ただの枕”。
それも、きっとこの男の“遊び”のうちだったのだ。
「……あなたの“遊び”に、応じる気はない」
イリナは静かに、しかし揺るぎなく言い放つ。
短剣の切っ先が、霧をわずかに裂いた。
「そう? でもね――始まってしまったものは、もう止まらないよ。
君の目に映るもの……本当に、それが現実だと思ってる?」
ミレクトの笑みが、さらに深く、濃くなる。
まるで目の前で溺れる者の苦しみを、心から楽しんでいるかのように。
ミレクトの言葉をすべて信じるわけではない。
だが、彼がカティアに直接危害を加えることはないはずだった。
カティアが死ねば、ラグナスが必ずこの場に現れる。
そうなれば、この“霧の主”とてただでは済まない。
魔王ラグナスという存在は、イリナにとっていまだ掴みきれない。
だが一つだけ確かなのは、〈魔族は魔王を殺すことができない〉という事実。
その絶対的な存在を敵に回す愚かさを、この男が理解していないとは思えなかった。
イリナは一度、深く呼吸を整えた。
喉に刺さるような空気の冷たさも、霧が支配するこの部屋の一部。
彼女は、暗殺者として数多の任務をこなしてきた。
魔族と刃を交えたことも何度かある。
表向きには“好戦的で、思慮のない野蛮な存在”と教えられてきた。
だが実際には、彼らにも怒りがあり、恐れがあり、愛があり、誇りがあった。
それは、人間とほとんど変わらない。
この国に来てから触れた魔族たちもまた、皆そうだった。
ラグナスも、ナグルアも、そして今はまだ顔を見せぬ他の者たちも。
人間と変わらぬ感情で生き、考え、選び、時に苦しんでいる。
(――先ほどの気配も、その証拠だ)
狂気の色を帯びてはいるが、それでも思考はある。
自身の利益と損害を天秤にかけ、立ち回るだけの知性もある。
だからこそ、イリナは彼の行動に読みを立てられる――はずだった。
けれど。
(……本当に、“今”見えている彼は、そこにいるの?)
霧の中で、視界がゆらいでいた。
目の前に立っていたはずのミレクトの輪郭が、ふっと滲む。
イリナは無言で短剣を握り直す。
手の中に確かな重みと冷たさがある。
それだけが、彼女の現実をつなぎ止めている。
(幻覚……感覚さえも、蝕まれる)
目に映るものが信じられない。
音も、光も、匂いも、何もかもが曖昧に歪み始めている。
そんな中でも、イリナはただ一つの感覚――
“気配”に、意識を研ぎ澄ませていった。
視界を頼らず、耳を澄ませ、皮膚に触れる微かな空気の動きを感じ取る。
かつて、何度も暗闇の中で命を賭してきたときと同じように。
(姿に惑わされるな。空気の流れを読む――)
ミレクトの“霧”が部屋中を這っているなら、彼がどこかに実体を持って立っているはず。
どこかで、必ず霧が生まれ、また戻っていく“中心”がある。
そこを、狙う。
イリナの身体は、すでにわずかに膝を緩め、床を蹴り出せるよう構えていた。
目には見えない緊張の糸が、霧の帳の中に張り詰めている。
その瞬間。
背後で、空気が揺れた。
ほんの僅か。
だが、それは確かに“誰かが息を吸った”気配だった。
イリナの眼光が、鋭く跳ね上がる。




