魔王の城へ、祝福と共に
天は晴れわたり、雲ひとつない蒼穹が城下を包んでいた。
まるで、今日という日が祝福されているかのように。
しかし、ルヴィエル王国の民たちの表情に笑顔はなかった。
この国は、長きにわたり戦火に晒されてきた。
魔族の領地と接するという地理的な宿命のもと、村が焼かれ、命が散り、嘆きが繰り返された。
民の誰もが平和を願っていた。
そして今、国中の祈りを背負い、城の扉が静かに開く。
黄金の陽をそのまま紡いだような髪が、光をはじく。
緩やかな波のように揺れ、風に舞うその金糸の向こうに姿を現したのは――
この国の第三王女にして、神に選ばれし聖女、カティア・ルヴィエル。
その眼差しは、湖面のように穏やかで、晴れた空の色を宿していた。
淡い蒼の光は誰をも拒まず、けれど、どこか遠い場所を見つめているようでもあった。
身を包むのは、緋ではなく白。
剣でも鎧でもなく、純白の婚礼衣装。
花の刺繍が施された薄絹は陽に透け、肌の白さを際立たせる。
まるで、祭壇に捧げられる生贄のように――美しく、静かだった。
「平和のために」
そう呟いた唇に、微かな笑みが灯る。
それは希望にも、諦めにも似ていた。
多くの人々が見守る中、カティアは一歩ずつ歩みを進める。
絹の裾が石畳を滑り、足音すらも祝詞のように響く。
その背後に、静かに寄り添う一人の影――イリナ。
黒い礼服に身を包んだその姿は、まるで影のようだった。
無表情のまま、ただカティアの背中を見つめていた。
その瞳の奥に何を宿しているのか、誰も気づかない。
やがて、魔族の兵たちが現れる。
黒の鎧をまとい、無表情のまま整列する彼らの中から現れたのは、
巨大な魔獣に引かれた漆黒の馬車。
威圧するような咆哮はなく、ただ静寂だけが辺りを包む。
馬車の扉が音もなく開かれると、カティアは一度だけ振り返った。
微笑みは消えず、涙もなかった。
けれど、誰よりもこの国を愛したはずの聖女が、
どこか解放されたような安らぎを宿していたことに、イリナだけが気づいていた。
イリナもまた、無言のまま馬車へと乗り込んだ。
その視線は、見送る者たちの誰にも向けられていなかった。
カティアとイリナを乗せた馬車が城門を越えると、
民たちはその後ろ姿が見えなくなるまで立ち尽くした。
王族たちは沈黙のまま彼女らの背を見送る。
民衆の中には祈る者、涙を流す者、そして何も言えず俯く者がいた。
その胸の内には、悲しみと誇り、そして僅かな安堵が交錯していた。
自分ではなかったこと、への救いにも似た感情。
それもまた人の正直な気持ちであった。
馬車の中は、外観の物々しさに反して、驚くほど静かだった。
軋む音ひとつせず、車輪の揺れすらもほとんど感じない。
人間よりも魔術に長けた存在の魔族の手によるものだ。
おそらく、内部を静穏に保つための魔法が施されているのだろう。
黒鉄の鎧を纏った魔族の兵士たちが周囲を固める中、
馬車の中にいるのは、カティアとイリナの二人だけだった。
薄く開かれた小窓から差し込む光の中で、
カティアは静かに外を見つめている。
言葉は交わさない。
けれど、沈黙が重苦しいわけではなかった。
むしろ、何か神聖な儀式の最中にあるかのように、空気は張り詰め、静謐だった。
カティアの横顔は、まるで像のように整っていた。
花嫁衣装に身を包んだその姿は、清らかで、美しかった。
だがイリナが見ていたのは、その装いではない。
――平和のために自らを差し出すという、その揺るがぬ精神だった。
それは他者に与えられた使命ではなく、彼女自身が選び取ったものだったのか。
それはイリナにも分からない。
カティアは、魔王の花嫁として。
イリナは、その付き人として。
二人は今、魔族の国へと向かっている。
それはもう、戻ることの叶わぬ旅路だった。
黒い馬車は静かに進み続ける。
その姿は、どこか棺に似ていた。
祝福の名のもとに、死の国へ送り出される者たち。
まるで、生者の国からそっと切り離されるように、
ゆっくりと、確実に、遠ざかってゆく。
イリナは一瞬、掌に視線を落とした。
その手は、剣を握るために鍛えられたもの。
そして今、その手が抱えるのは誰にも言えぬ秘密だった。
それほど長く時間が経ったとは思えなかった。
けれど、気がつけば馬車の窓から見える風景が変わっていた。
静かに、確かに、魔族の領へと踏み入れていたのだ。
空は同じように青く、太陽も変わらず高くあった。
だが、なにかが違う。肌に触れる空気が、どこか異質で重たい。
色合いのわずかな濃さ、風に混じる見慣れぬ香り。
小さな違和の積み重ねが、「ここはもう人の国ではない」と告げていた。
窓の外には、整えられた石畳の道、規則正しく並ぶ住居、商いをする者の姿が見える。
驚くほど人間の町と似ていた。
家があり、店があり、そこに暮らす民がいる。
誰かが買い物をし、子どもが遊び、老いた者が庭先に椅子を出して日を浴びている。
イリナは隣のカティアを見る。
カティアは変わらず、静かに外の景色を見つめていた。
その視線の先に、どんな感情があるのか。
イリナには読み取れなかった。
やがて、馬車がゆっくりと止まる。
鈍い音を立てて扉が開かれると、目に飛び込んできたのは、重厚な石造りの門と荘厳な建築。
魔王の居城。
魔族を統べる者が座す城だった。
黒鉄の鎧に身を包んだ魔族の兵たちが馬車の周囲に整列する。
剣の柄に手をかける者、無言で周囲を警戒する者。
誰もが鋭い緊張感を纏っていた。
その中、カティアとイリナは無言のまま導かれ、城内へと足を進める。
広間を抜け、重厚な回廊を渡り、やがてたどり着いたのは謁見の間。
高くそびえる天井。
壁に連なる古代語の装飾。
そしてその中心、黒曜石のように艶めく玉座が据えられていた。
その玉座に座す者――魔王ラグナス。
彼は立ち上がることもなく、ただ静かに二人を見つめていた。
そのまなざしは冷たくも映ったが、不思議と怒気や敵意は感じられなかった。
カティアが玉座の前で静かに膝をつく。
イリナもそれに倣い、慎重に頭を垂れる。
一瞬の静寂が落ちる。
やがて、その静けさを破るように、玉座から声が届いた。
「……顔をあげろ」
低く、よく通る、けれど威圧のない澄んだ声だった。
命令とも、ただの呼びかけともつかない、静かな響き。
イリナは反射的に顔を上げた。
――そして、見た。
魔王ラグナスの姿を。
その姿は、確かに人とは異なっていた。
けれどイリナの目に映ったのは「異形」ではない。
むしろ、現実離れした美しさだった。
夜の底を思わせる深い蒼の髪は、なめらかに肩を越え、風すら纏うように流れていた。
同じく深い蒼を湛えた瞳は、縦に割れた瞳孔を揺らしながら、静かにこちらを見つめている。
そのまなざしは澄んでいて、冷たい。優しげでいて、底が見えない。
白磁のような肌の額からは、緩やかに湾曲した黒銀の角が伸びていた。
それは装飾ではなく、生まれ持った証。神聖さすら漂わせている。
閉ざされた唇には表情が読み取れないが、どこか「哀しみ」に近い気配が微かに滲んでいた。
声、姿、気配――
すべてが人の常識を超えていた。
だがイリナは、目を逸らすことができなかった。
むしろ、圧倒され、強く惹きつけられていた。
それは恐怖ではなかった。
ただただ、畏れと、美しさへの感情だった。
魔王という存在の、底知れぬ静けさと威光、そして――あまりに整いすぎた異形に。
その瞬間、イリナの中で、何かが軋んだ。
(……こんな相手を、私は……)
胸の奥に、誰にも明かせない秘密を抱えながら、イリナはそっと唇を噛んだ。
彼女がこの地を訪れた本当の理由――
それは、魔王ラグナスを“殺す”ため。
付き人として聖女カティアに同行するその裏で、イリナは王国が密かに放った暗殺者だった。
それなのに。
今だけは、まるで見てはならぬものを見てしまったような、罪悪感に貫かれていた。




