最終章 遠き肉体
展示室は、音を吸うように設計されていた。
天井は高く、壁は黒に近い灰。
来訪者が歩くと、靴の底の音すら、どこかに吸い込まれていった。
中央には、椅子がひとつ。
その椅子に、誰かが座っているように見えた。
本間碧のアンドロイド・カナエ。
だが、通電はされていなかった。
目は閉じられたまま、呼吸の模倣もなかった。
声も、記録された演技の再現もなかった。
彼女は、ただそこに座っていた。
説明パネルには、こう書かれている。
「本間碧。最期の演技は記録されておらず、再現も行われていない。
この展示物は、演技の“不在”と“遺響”を記憶するために設置された。
来訪者は、彼女の“語らなかった沈黙”とともに、ここに座す。」
訪れる者は多くなかった。
だが、訪れた者の大半は、椅子の前で立ち止まり、何も語らず、ただしばらくその空間に身を置いた。
ある者は目を閉じ、ある者は周囲の壁に目をやった。
まるで、そこに何か“残っている”ものを感じ取ろうとするかのように。
少女がひとり、母の手を離れて椅子に近づいた。
手を伸ばし、カナエの手の甲に触れようとした。
その瞬間、警告音も、アラームも鳴らなかった。
カナエの手は、ただそこに“あった”。
しかし、少女の指先がほんの数ミリ手前で止まったとき、
彼女は、何かが“すでに触れられている”ことを知ったように、微かに頷いた。
その様子を見ていた案内係は、何も言わずにそのまま静かに見守った。
やがて、部屋の隅のパネルに、碧の言葉が投影された。
映像でも音声でもない。
ただ白地に黒の活字で、短い文章が浮かぶ。
「私の中に在ったものが、すべて去ったあと、
まだ残っていたもの――
それを、人は“芸術”と呼ぶのかもしれない。」
来場者が去った後、展示室には再び無人の静けさが戻った。
誰もいない椅子、動かないアンドロイド、点滅しない照明、何も発しない壁。
そして、その静けさの中に、なにかが“聴こえていた”ような気がした。
それが、碧の残した声だったのか、
あるいは、そこにいた誰かが“自分の中で思い出した”声だったのかは、
もう誰にも、わからなかった。
(了)