第6章 遺言としての演技
彼女は、もう声を出すことができなかった。
喉の筋肉が、音を形にすることを忘れていた。
言葉は脳の中にあっても、口からは出なかった。
それでも、彼女は演技の準備をしていた。
部屋の中央には、小さな円形の照明が落ちている。
それは舞台ではなく、**“場”**だった。
四方を囲むのは、AI記録装置ではなかった。
ただ、人間の目と耳と、身体だけがあった。
文化庁は、今回の演技について「記録を放棄する」ことを認めた。
その代わり、この空間に居合わせた者すべてが“記録媒体”になるという誓約が交わされた。
記録するのではなく、継承するために、見る。
見ることが、受け継ぐことになる。
それが、彼女が選んだ“遺言”の形式だった。
彼女は立っていた。
誰の支えもなく。
骨のきしみが聞こえるような、危うい姿勢で。
そして、彼女は動き始めた。
だがそれは、「動作」とも、「演技」とも呼べるものではなかった。
たとえば、ある瞬間、彼女は床を見つめた。
数秒後、まぶたが重く落ちた。
その間に、“何が起きていたのか”は、誰にも説明できなかった。
手は震えていた。
だがその震えは、意図して生まれたのか、老化によるものなのか、
あるいは**「それ以外の何か」**によるものなのか、誰にも分からなかった。
言葉は発せられなかった。
だが、言葉にならなかったものが、場に満ちていた。
彼女は、過去に演じた台詞の一節を、唇だけで動かした。
音は出なかった。
だが観客は、その“無音の台詞”が、かつてのどんな台詞よりも強く響いたことを理解していた。
それは、記録も解析もできない。
ただその場にいた身体だけが、“感じ取ることができる何か”だった。
彼女は最後に、右手を胸元に当て、ゆっくりと顔を上げた。
目は閉じていなかった。
だが、見るでもなく、感じるでもなく、ただ“そこに在った”。
観客の中のひとりが、涙を流していた。
その涙は、感動ではなかった。
あるいは、**「失ったものとまだつながっている感覚」**に対する驚きだったかもしれない。
演技が終わったかどうかを知らせる合図はなかった。
だが、全員が立ち上がらずに、静かに呼吸を整えた。
彼女は椅子に腰を下ろし、目を閉じた。
そのまま、微かにうなずいた。
それが、最期の演技だった。
記録装置は、なにも残していない。
公式なログは「実演なし」と記録された。
だが、あの場に居た者の身体には、
あの“言葉なき演技”が刻みつけられていた。
藤江は、その夜、手帳にひとつの文だけを書いた。
演技とは、記録されない者が、記録のなかに“残響”として現れることだ。