表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

第6章 遺言としての演技


彼女は、もう声を出すことができなかった。


喉の筋肉が、音を形にすることを忘れていた。

言葉は脳の中にあっても、口からは出なかった。

それでも、彼女は演技の準備をしていた。


部屋の中央には、小さな円形の照明が落ちている。

それは舞台ではなく、**“場”**だった。

四方を囲むのは、AI記録装置ではなかった。

ただ、人間の目と耳と、身体だけがあった。


文化庁は、今回の演技について「記録を放棄する」ことを認めた。

その代わり、この空間に居合わせた者すべてが“記録媒体”になるという誓約が交わされた。

記録するのではなく、継承するために、見る。

見ることが、受け継ぐことになる。

それが、彼女が選んだ“遺言”の形式だった。


彼女は立っていた。

誰の支えもなく。

骨のきしみが聞こえるような、危うい姿勢で。


そして、彼女は動き始めた。

だがそれは、「動作」とも、「演技」とも呼べるものではなかった。


たとえば、ある瞬間、彼女は床を見つめた。

数秒後、まぶたが重く落ちた。

その間に、“何が起きていたのか”は、誰にも説明できなかった。


手は震えていた。

だがその震えは、意図して生まれたのか、老化によるものなのか、

あるいは**「それ以外の何か」**によるものなのか、誰にも分からなかった。


言葉は発せられなかった。

だが、言葉にならなかったものが、場に満ちていた。


彼女は、過去に演じた台詞の一節を、唇だけで動かした。

音は出なかった。

だが観客は、その“無音の台詞”が、かつてのどんな台詞よりも強く響いたことを理解していた。


それは、記録も解析もできない。

ただその場にいた身体だけが、“感じ取ることができる何か”だった。


彼女は最後に、右手を胸元に当て、ゆっくりと顔を上げた。

目は閉じていなかった。

だが、見るでもなく、感じるでもなく、ただ“そこに在った”。


観客の中のひとりが、涙を流していた。

その涙は、感動ではなかった。

あるいは、**「失ったものとまだつながっている感覚」**に対する驚きだったかもしれない。


演技が終わったかどうかを知らせる合図はなかった。

だが、全員が立ち上がらずに、静かに呼吸を整えた。


彼女は椅子に腰を下ろし、目を閉じた。

そのまま、微かにうなずいた。


それが、最期の演技だった。


記録装置は、なにも残していない。

公式なログは「実演なし」と記録された。

だが、あの場に居た者の身体には、

あの“言葉なき演技”が刻みつけられていた。


藤江は、その夜、手帳にひとつの文だけを書いた。


演技とは、記録されない者が、記録のなかに“残響”として現れることだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ