第5章 沈黙する声
カナエは、舞台の中央に立っていた。
観客は固唾をのんで見守っている。
再現されるのは、数日前に本間碧が残した“沈黙の演技”――動かない、語らない、ただ存在することだけを選んだ、あの“舞台”だった。
照明が落ちた。
静寂。
そして、AIが再現する「沈黙」が始まった。
カナエは、碧と同じ場所に立ち、同じ時間、同じ姿勢、同じ“動かなさ”を維持した。
AIは、筋電位・関節角度・姿勢崩壊傾向のデータを完全に再現していた。
碧の右足が微かに痙攣したその時間軸さえも、正確に再現されていた。
だが――
観客席は、静かだった。
静かすぎた。
そこには、“息を呑む”という動作さえ存在しなかった。
藤江は、モニター越しに観客の生体反応を確認していた。
心拍数は平常。
発汗も、瞳孔反応も、変化がなかった。
一人の観客も、“感情的な応答”を示していなかった。
沈黙は、再現されていた。
だがその沈黙は、ただの“空白”だった。
舞台は確かに“正しく”沈黙していた。
けれど、かつて本間碧が沈黙したあの瞬間に漂っていた――言葉を発するかどうかの“迷い”、そして“言わない”ことの痛み――は、そこにはなかった。
観客の中にいた森岡仁が、息を吐き出すように呟いた。
「……あれは“ただの無音”だ」
本物の沈黙には、語ろうとした身体の名残りがあった。
声を発しようとして、喉が詰まる。
腕を上げようとして、途中で止める。
あらゆる“不発の兆し”が沈黙を厚くし、意味を孕ませていた。
だが、カナエには“兆し”がなかった。
意図されて設計された沈黙は、完璧で、滑らかで、意味を持ち得なかった。
沈黙の終わり。
カナエがゆっくりと頭を下げる。
舞台は暗転。
照明が落ちる。
——だが、拍手は起こらなかった。
客席は、沈黙のままだった。
それは、尊敬や感動の沈黙ではなく、
“何も感じなかった”という沈黙だった。
誰もが悟った。
沈黙は、音の不在ではなかった。
それは、“話そうとして話さない”という意志の残響だった。
それがなければ、沈黙はただの「無」になる。
楽屋で、藤江はデータログを見ていた。
“再現成功率 99.98%”と表示されていた。
しかし彼の胸には、初めて“敗北”という言葉が浮かんでいた。
そこにいたのは、あの碧ではなかった。
そこにいたのは、“記録された沈黙”だった。
それは、誰の沈黙でもなかった。
藤江は、ログを閉じた。
そして、静かに言った。
「……沈黙は、記録できない」
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