第4章 演技される死
舞台は、何もなかった。
照明も、音楽も、背景もない。
ただ黒い床と、天井からのわずかな自然光。
観客は椅子に座り、開演の合図もないまま、沈黙の中で彼女を待っていた。
そして、舞台袖から本間碧が現れた。
車椅子ではなかった。立っていた。
杖も使わず、誰の手も借りず、歩こうとしていた。
身体は確かに崩れていた。
足が、内側に入りそうになった。
背筋は曲がっていた。
目線は、定まっていなかった。
けれど、それが“演技”ではなく“存在そのもの”であると、観客はすぐに悟った。
碧は、舞台の中央まで歩くと、立ち止まった。
そして、動かなくなった。
何分経っても、動かない。
表情も、変えない。
まばたきすら、しない。
照明卓の横にいた藤江は、記録装置のログを確認していた。
AIアーカイブユニットは、映像・音響・運動信号をすべて取得しているはずだった。
だが、記録は“何も記録されていない”と表示していた。
——「対象が静止しすぎて、動作と認識できない」
——「音声信号なし」
——「表情データ、解析不能」
碧は、“記録されない演技”をしていた。
それは、演技ですらなかった。
“ただそこにいる”ことだけを選び、**技術も、AIも、観客の記憶すら拒むような“零度の身体”**でそこに存在していた。
数分後、彼女は、ゆっくりと片足を引いた。
バランスを崩す。
倒れるかと思われたが、彼女は静かに“崩れた姿勢のまま”止まった。
支えもせず、立て直しもせず、不完全な形で立ち尽くすことを選んだ。
——この崩れは、AIには再現できない。
——これは「正しくない動き」であり、意味として抽出できない。
彼女は、沈黙のまま、腕を少しだけ持ち上げた。
だが、その手は、空中で止まりきれず、震えたまま、ぶら下がるように落ちた。
観客の中に、微かな吐息が走る。
空気が揺れた。
咳をする者もいなかった。
誰もが、何かが“起こってしまった”ことを理解していた。
それは演出ではなく、**人間の存在が崩れていく“時間そのもの”**だった。
そして、碧は静かに、舞台に腰を下ろした。
そのとき、右足が痙攣した。
表情が歪んだ。
——これもまた、演技か否かは、誰にも分からなかった。
それでも彼女は、言葉を発さなかった。
言葉を超えた、言葉以前の時間に、彼女の演技は帰っていった。
やがて照明が落ちた。
誰も拍手をしなかった。
それが終わりだということを、誰もが身体で理解していたからだった。
その翌日、文化庁アーカイブ部門には、「録音不能記録」として、
《公的演技データ:本間碧最終演目 未登録》とだけ残された。
観客の中には、「あの演技をどうやって説明するのか?」と問う者もいた。
ある記者は書いた。
「それは“演技”ではなかった。
それは、“生きたまま死にゆくものが、最後に残した動き”だった。
AIに継がせるものではない。あれは“観た者の身体”にだけ継承された。」