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第3章 他者としての自分


拍手は、波のように押し寄せた。


ロンドン・コヴェントガーデン。五百人の観客が一斉に立ち上がり、手を打ち鳴らす。

彼女——**“カナエ”**が最後の一礼を終えると、照明が舞台の上から静かに落ちた。

幕が閉じる。

だが拍手は止まらなかった。


カナエは、一度も失敗しなかった。

台詞は明瞭で、間は正確だった。沈黙は設計された深さを保ち、目線の動きは一秒単位で制御されていた。

一歩の重さ、振り向きの角度、声の震えまでも、完璧に演じられていた。


観客席の後方、照明卓のすぐ近くに設けられた「特別席」に、碧は静かに座っていた。


車椅子の上で、拍手を聞きながら、自分自身が“他人”として賞賛される様子を目撃していた。

顔は微笑んでいたが、唇の端はわずかに痙攣していた。


彼女は演技を見ていなかった。

見ていたのは、“自分の失われたはずの身体”が、今ここにあるように扱われている光景だった。


カナエは、本間碧を再現したAIアクターである。

碧の過去の演技記録、声帯特性、筋電パターン、呼吸リズム、非言語表現パターンまでもが、記号として再構成されている。


だが、カナエは一度も“揺れなかった”。


立ち上がるときに、わずかに膝が崩れることもなかった。

沈黙の間に、言葉を探す“目の泳ぎ”もなかった。

呼吸が乱れることもなく、口の中で言葉を転がして止まることもなかった。


カナエは、“完成された”碧だった。

だがそれは、碧ではなかった。


幕間、藤江蒼が静かに碧のもとに近づいた。


「……拍手が止まりませんね。成功です。世界は、先生の演技をもう一度体験できるようになりました」


碧は答えた。


「そうかしら。

 あれは、演技じゃないわ。

 “模範演技”よ。

 あなたたちは、“他人に真似されやすい私”だけを抽出したのね」


「でも、先生ご本人の痕跡から生成されています。

 演技そのものが、再現されているはずです」


碧は、しばらく黙っていた。


「痕跡、というのはね。

 本当は、“何も残らなかった”という沈黙の中にしか現れないものよ」


彼女は、観客席を見渡した。

笑い、泣き、拍手している人々。

彼らの目の中には、確かに「本間碧」がいた。

しかしその碧は、**“忘れやすく、記憶に収まりやすい碧”**だった。


碧は、あえて問いを口にした。


「あなたたちの再現した私は、“一度も咳をしない私”なのね?」


藤江は言葉を返せなかった。


舞台上で、カナエが最後のカーテンコールを終え、退場する。

その姿勢は正しく、歩幅は一定で、背筋は理想的だった。


しかし碧の中では、別の記憶が甦っていた。

——昔、本当の舞台で、一歩、足がもつれて膝を打った日のこと。

台詞が一瞬だけ飛び、無音の1.5秒があった。

観客のざわめきが走った。

だがその後に吐き出された台詞は、その日の中で最も深く、痛切な言葉だった。


その瞬間こそが、自分が“本間碧”であった証しだった。


だがカナエは、転ばなかった。


藤江が静かに言った。


「……先生の最後の演技。私たちに、残していただけますか。

 “再現できないもの”を、“再現不能な形”で。

 私たちは、それをそのまま保存します」


碧は、少しだけ微笑んだ。


「そうね。

 じゃあ、最後の舞台は、沈黙と震えだけで構成しましょう。

 言葉は、もうAIが持っているでしょうから」


その夜、彼女は照明の消えた稽古場に入り、

沈黙だけでできた芝居の稽古を始めた。


それは、再現不可能な演技の始まりだった。

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