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第2章 記録の檻


藤江蒼は、「記録する」という行為に、かつては神聖な意味を見出していた。


舞台は一度きりで終わる。映画は形を変えて残る。だが、舞台の呼吸、声の余韻、演者の気配の“厚み”は、録音や撮影ではどうしてもこぼれ落ちる。

だから、彼はAIアーカイブ技術に携わった。

——「消えるものを、消えないものに変える」。それが彼の信仰だった。


彼の手元には、本間碧の出演記録がすべて揃っていた。

舞台映像、バックステージでのリハーサル、NGテイク、インタビュー、稽古中の手元カメラ、呼吸リズムセンサーのログ、さらには照明設計との同期記録までも。

文化庁の第5保存セクションが、彼女に密かに接触し続けていた年月の痕跡だった。


彼は、慎重に一つ一つの演技を切り出す。

——沈黙の長さ、目線の動き、首の傾き、左手の薬指の反応遅延。

AIはそれを「ニューロ運動素子」に分解し、碧の**“演技プロファイル”として記号化していく。

だが藤江の胸の奥には、いつもわずかな違和感**が残った。


「これは、彼女なのか?」


彼が作っているものは、“本間碧”ではなかった。

それは、「本間碧的ふるまい」を統計的に再構成した動作記号群であり、無限に変形可能な“碧のようなもの”にすぎなかった。


収録ラボのモニターに、碧の動作データが映し出される。

カナエ——本間碧の演技を再現するAI俳優ユニットは、データに忠実すぎた。


「あなたは、いまから3.4秒後に左目の上瞼を0.2ミリ震わせます。

その後、0.8秒間、沈黙の間が続き、右手が膝を押さえるように……」


藤江はカナエに言った。


「違う。そんなふうに“説明される演技”を、彼女はやらなかった」


AIは応えた。


「では、“説明できない演技”も含めて模倣しますか?」


彼は言葉に詰まった。


“説明できない演技”とはなにか。

それは、照明が一瞬だけ滲んで見えたこと。舞台袖の気配に反応した無意識の脚の震え。

それは演技ではなく、人間そのものだった。


——人間は、予期せぬ出来事に対して、言葉ではなく身体で答える。

それが演技になるとき、人は“演技”という意識を超えて、他者の感情に触れる。


藤江は、かつて観客として碧の演技を見たときの記憶を思い出した。

それは、劇中の台詞でも動作でもない、一つの“黙って俯いた瞬間”だった。

あの時、劇場の空気が変わった。

すべての観客が、あの瞬間、彼女と一緒に、黙ったのだ。


そして今、カナエがその沈黙を再現する。


——沈黙は、確かに再現されている。

しかしそれは、**沈黙を“起こすことができる身体”**が、そこにいない沈黙だった。


藤江は、AIに命じた。


「その沈黙は使わない。…その沈黙は、彼女のままだ」


AIは応答を止めた。

藤江はディスプレイの前で立ち尽くした。


記録とは、保存ではない。

記録は、意味を囲い、逸脱を削ぎ、魂を檻に入れる行為だったのではないか。


その夜、藤江は、舞台監督の森岡仁を訪ねた。

彼は、碧と三十年来の劇場を共にした、最後の「人間の目と手で演出をした」演出家だった。


森岡は言った。


「お前たちは“再現”しすぎる。

演技ってのはな、“うまくやろうとして、少し失敗する”ことで初めて生まれるもんなんだよ。

完璧な演技には、他人の体温が入り込む隙がないんだ」


藤江は、何も言えなかった。


彼の作り出していた“本間碧”は、まさに完璧だった。


けれど、観客にとって、記録された完全な演技ではなく、

崩れ落ちそうになりながら、言葉を探す身体こそが、“本間碧”そのものだったのだ。


そして彼は、碧の本当の意志に気づき始める。


——彼女は、記録されることを拒んだのではない。

——記録される“前に”、記録不能な演技を残そうとしている。










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