第1章 肉体の終わり
本間碧は、目を覚ますたびに、自分の身体が“抜け殻”に近づいているのを感じていた。
この数年で、身体の一部ずつが沈黙を始めていた。最初は指だった。次に腰。その次は、舌の筋肉と、喉の柔らかさだった。朝、口を開こうとしても、台詞の一音が立ち上がらない。唇の裏側で、かつて台詞を立ち上げていた圧力だけが残っている。
鏡に向かって、碧は声を出す練習をする。だが、出てくるのは“声”ではなかった。過去の声の“残像”だった。
彼女の住む部屋は、都内の文化庁指定演者支援施設の一角にある。白く、清潔で、整えられている。舞台の控室のように何もなく、何もないことで安心できる。
リビングの正面には大型の有機ELパネルがあり、そこに「碧のアーカイブ」が静かに再生されている。
『長椅子の上の海』の舞台。三幕目、照明が落ちた後、碧が沈黙しながら椅子に座るシーン。観客が見えないほどの“長い沈黙”が、そのまま再生されている。
けれど、再生されているのは、本間碧ではなかった。
それは「カナエ」だった。
文化庁AI演技継承ユニットが開発した“感情連動型俳優アバター”で、碧の発声、表情、身振り、無意識の咳払いまで、すべてを忠実に再現している。
再現されすぎている。
碧は目を細め、思わずつぶやいた。
「私じゃないわね」
ほんのわずか、まばたきの“揺れ”が違っていた。呼吸の“乱れ”が足りなかった。沈黙が完璧すぎた。
あのとき、本当は、咳をこらえていた。
その瞬間、喉を押さえながら観客の気配を感じた。あの感覚は、喉の奥で“ざらり”と残っていた。けれど、それはデータには乗っていなかった。
彼女は立ち上がろうとした。膝の力が抜けた。バランスを崩し、壁に手をついて支える。
すぐに部屋のセンサーが反応し、介護ロボットが動いた。
「碧様、転倒の恐れがあります。お座りください」
「黙ってなさい」
彼女は指先でリモコンを拾い、映像を止めた。画面の中のカナエの顔が、静かに暗転していった。
沈黙が部屋を満たした。
それは、舞台の沈黙ではなかった。生きている者が“言葉を失った”ときにだけ訪れる、重たい沈黙だった。
部屋の隅には、過去に碧が使用していた、舞台用の衣装がかけられていた。もう袖を通すことはできない。背中のファスナーは、彼女の腕では届かない角度にあった。
窓際に車椅子が置かれている。そこには、舞台で彼女が好んで使用していた“木製のステッキ”が立てかけられていた。手に馴染んだ滑り止めの感触が、いまはもう指にかからない。
その夜、文化庁からの使者が来た。
若い技術官だった。名を藤江蒼と言った。
「本間先生。AI継承プログラムへのご参加の件、再度ご説明に伺いました」
「断ったはずよ」
「先生のお声、表情、記憶、発語の構造、呼吸のリズム、すべてが“演技の生きた型”として、国家アーカイブにとって—」
碧は、彼の言葉を遮った。
「声を覚えるの? 息を記録するの? まばたきのタイミングを、記号にするの?」
「はい。最新の神経生成モデルは、先生の“意味にならなかった所作”すらも、抽出し、保存できます」
彼女は、目を閉じた。
意味にならなかった所作——そこにしか、演技は宿らないと、彼女は長く思い続けてきた。
言葉を言う前に立ち上がろうとしたときの“ためらい”。目の奥で震える“見ないことの勇気”。
それは“保存”できるものではなかった。
碧は静かに言った。
「なら、最後に、ただ一度だけ演じましょう。
私自身の死を、私の身体で、演じてあげる。
それを、録ってもいいわ」
藤江は、戸惑いのまま頷いた。
その夜から、碧は再び台詞の練習を始めた。
言葉ではない。
身体が崩れていく、そのこと自体を、演技に変える練習だった。
続く