いつしかの過ち
「ねえ、ママ、本当に帰らなきゃダメ?」
3日ぶりに電話で娘の声を聞いた。ロンドンから電話があるたびに私は娘の変化を感じる。大人びたことを言ったり、私をからかったり、そして今日は私に甘えてみたり…、聞いたことのない声色を使いわける。成長しているというより、別人になっていくよう。殻を破る、とはこういうことか? 私は頭の中で白い卵の殻から出てくる黄色いひよこの絵を描いた。そうやってとまどいを紛らわす。ロンドンに行く前の娘の話し方が思い出そうとしても、今の娘の話し方が耳に馴染んで思い出せない。
「当たり前じゃない、いつまでもカナちゃんの世話になるわけにかないでしょう」私は諭すような口調で答えた。
「でもね、カナちゃんが言ってくれたの、『私のこと翠ちゃんの従姉妹だと思わなくていいわよ、ロンドンのママだと思っていいの、言いたいことがあれば遠慮しないで言うのよ、あなたの年頃の特権だから、いま大人に遠慮してると将来後悔するわよ、大丈夫、ヘンリーだって私の言うことはなんでも聞いてくれる、もしずっとここにいたいならいていいわよ』」娘は私の従姉妹の口調をまねて言った。
「もう、カナちゃんたら…、ねえ、彩、それはねあなたが帰る人だからそう言ってくれるのよ、カナちゃんとヘンリーには二人の生活があるの、とにかく今は日本に戻ってちゃんと大学に入らないと、やりたいことがあるならそれからよ」
「わかってる、予定調和でしょう?」娘の口調が突然大人びる。
「予定調和?」
「私がカナちゃんのお世話になるのは予定では明日まで、予定通り終わるからカナちゃんは寂しいって言ってくれる、もしこのまま私がいすわったらカナちゃんはとても困る、そういうことでしょう? 私のせいでママの人生が予定調和にならなかったこと悪いと思ってるわ」
…なんてこと言うのよ、私はそう言いかけて言葉を飲み込んだ。予定調和などという言葉を覚えてきたのだろう?
「思っちゃうのはしかたのないことでしょう?」娘は言葉を継ぐ。「今度はパパの予定調和も成立しなくなってる、ねえ、ママ、私帰ったら我慢せずにパパの前で言いたいこと言っちゃうかも」
「言いたいことってどんなこと?」
「パパは私がロンドンにくることに大反対だった? 『遊びに行くだけだろう? そんな時間があるなら真面目に勉強しろ、おまえはただでさえ他人より遅れを取っているんだ』ってすごい上から目線」娘はそこで少し間を置いた。父親の口調は真似をしなかった。「カナちゃんとヘンリーに言わせると、人生は遊ぶためにあるんだって、胸を張って遊びまくれ、遊べなくなったらそれまでよって、…パパは遊べない人なんでしょう? 自分が遊べないから遊んでいる人を軽蔑する、病気はかわいそうだけど、緑内障は自業自得でしょう? だってもっと早く病院にいっていればこんなことにはならなかったんだから」
「彩、病気の人にそんなことを言うものじゃないわ」
「私間違ったこと言ってるかな? ねえ、ママ、私が言えた義理じゃないかもしれないけど…」
「それカナちゃんの口癖でしょう?」
「へへ」娘は聞いたことのない笑い方をする。
「日本語じゃなくて、カナちゃんの英語を真似すればいいのに」
「それがママの予定だったんでしょう? ・言いたいことはね、ママはもっと遊んだほうがいいと思うよ、元気なんだから、ママの学生の頃の写真、日焼けして真っ黒だったよね?」
「もうそんな年じゃないわよ、紫外線は肌に良くないし」
「じゃあ日焼けの悪影響何かあるの?」
「特にないけど」
「ほら!」娘は勝ち誇ったように言う。「やっぱりどうにかなるのよ、私ママにさんざん迷惑かけてきたけど、結局はどうにかなるって少しわかってきた、たぶん世界は一つじゃないのよ、学校では私はダメ人間だったけど、私がダメ人間じゃなくいられる場所もある、…パパはまるで世界が一つしかないかのように努力しろ、真面目に頑張れってそればかり、いい加減受け入れればいいのよ」
「彩が自分の考えをそれだけはっきり言えるのはいいことよ、でも、パパの気持ちだってわかるでしょう? 今までの人生で一番辛い時期を過ごしているの、だから辛いと感じるのは当たり前のことよ」
「だったら、他人の辛さがわかる人間になって欲しいな、自分のことばっかり」
「彩、いったいどうしちゃったのよ?」
「ごめんね、ママ、私今毒を吐いているだけだから、さっき言ったことは嘘よ、パパの前ではひどいことは言わない、家に戻ったら大人しくしてるわ」
「そんなに帰ってくるのが嫌?」
娘は考えているかのように少し間を置き、私の質問には答えずに言葉を続けた。「パパと一緒にいると、言いたいことがなくなるっていうか、イオンチャネルが全部閉じて外部からの刺激をシャットダウンしちゃうというか、だから我慢するわけじゃないし」
私は娘の饒舌さに驚いている。娘はそれほどロンドンの生活を楽しんだということなのだろう、確かに17で生まれて初めて親元を離れ、しかも海外で2週間も過したら、楽しいに決まっている、娘はしっかり遊んだのだ、学校に行けなくなり忘れてしまった遊び方を彼女は自力で取り戻した、それは母親として喜ばしい。
それにしても、カナちゃんとヘンリーとの受け売りとはいえ、あの子は傑さんと同じことを言った。「人間は遊ぶために生まれてくる、ママももっと遊んだほうがいいよ」
絶対に傑さんの子どもではないのに。
もし彼が父親だったらあの子は普通に学校に行けたのかな…?
私はすぐに心に浮かんだ疑問を打ち消した。今のままでいい、娘の今までの歩みはこれでよかったんだ、さんざん回り道をしてきたから今あんな風に大人びた口を利けるようになれたんだ。
じゃあ、お言葉に甘えて、明日あなたを羽田に迎えに行くまでの間、私も遊ばせてもらおうかな、私は心の中でつぶやき、電話を切った。
私はすでに傑さんと約束をしていた。
―飛行機は何時?
―羽田着は夕方の5時過ぎ
―だったらそれまでドライブしない? 気晴らしになるよ
―仕事は土曜日お休みなの?
―休みだよ
―そうなのね
―翠には気晴らしが必要だよ、絶対に、なんでもいいから普段はやらないことをやった方がいい
そんな会話を少し前に交わしていた。
普段はやらないこと…、私は免許を取らないままこの年になってしまった、そして夫が車を運転することはおそらく二度とない、夫の運転する車の助手席に私が座ることも二度とない。娘が免許を取るのを待つか…。
車で出かけるのが非日常になるなんて想像したこともなかった。
翌朝8時すぎに私は横浜駅へ向かった。高島屋の横で待っていると、真新しいシルバーのメルセデスが滑り込むように私の前に止まった。右側のドアが開き傑さんが下りてきた。昔よりもかなり短く切った髪の毛に月日の流れを感じる。その思いを私は恥じた。私を見た傑さんも同じことを感じているに違いない。それでも色が黒く健康そうで安心した。紫がかった藍色のプルオーバーがよく似合っていた。
「ありがとう、来てくれて、それに…」
「なあに?」
「今日の格好は翠によく似合ってる」
私が身に着けていたのは袖の先が広がったイエローの薄いコットンのニットと、やはり裾が広がった白のパンツ。
「そうかな、ありがとう、着る機会のない服だったけどメルカリに出さなくてよかったわ」
「全然着てなかった?」
「うん」
「サングラスかけるんだ? イメージがなかった」
「これ…」私は額にかけたサングラスを外して手に取り、見せるように言った。「傑さんと付き合っている時に買ったの」
不倫という言葉は好きじゃない。私たちは付き合っていた、お互い結婚はしていたけれど。
二人でドライブしたときに、晴れた日にはサングラスが必要だと気がついた。運転をしている彼はずっとサングラスをしていた。オリバーズ・ピープルという当時の私は聞いたことのないブランドのものだった。私は真似をして同じブランドのものを買った。店頭で実物を見たとき、やはり彼は高いものしか身に着けないんだ、と妙に納得した覚えがある。
「かけてみてよ」
「うん」私は言われた通りにした。
「ありがとう」彼の口から意外な言葉が漏れた。
「どうして?」
「だって、粋な計らいだよ、そんなおしゃれな恰好してくれるなんて」
「おしゃれ」という言葉を聞いて、少しバツの悪さを感じた。世間一般から見たらおしゃれのうちには入らないかもしれないけど、普段の私と比べたら確かに精一杯のおしゃれ。それでもたぶん、傑さんは素直に褒めてくれている。こういうのって、ずっとなかった。
彼は助手席のドアを開けてくれた。私は革張りの椅子に座る。5年乗っている我が家の国産のワンボックスと比べると未来の車のようなダッシュボードが私を迎えた。
彼も運転席に座る。私たちはシートベルトをした。
陰鬱な雲が空を覆っている。天気予報では降水確率は20%、梅雨の季節はまだ先なのに一日曇り空が続くらしい。それでも私の気持ちは晴れやかだ。
二人で会社を休んで一度だけドライブした思い出がゆっくりとよみがえる。
前日に見た天気予報の降水確率は50%くらいだったけれど、「雨なんて絶対に降らないよ」と彼は断言した。自分が「晴れ男」であることに絶対の自信がある人だった。当日、海沿いの空は雲一つなく晴れ渡り、天気予報を信じた人が多かったせいか道路や駐車場の車の数が少なかった。「楽しく遊ぶためには、人が少ないところへ行かないと」彼はそう言った、「遊ぶ」という言葉を彼は付き合っていたころから普通に使っていた。
今日は五月にしては肌寒い。
「気候がよくて日が長い、ゴールデンウイークの混雑が過ぎれば人も多くない、この時期に遊ばなかったらいつ遊べばいいのな?」彼は私の気持ちを見透かすように言った。
窓の外の景色が動き、車の中を聞いたことのない音楽が満たす。たぶん今の曲なのだろう。私たちは新しいものに囲まれている。
「山の方へ行こうよ」横浜駅西口の料金所の手前で彼が言った。
「え、山に登るの?」
「まさか」彼は笑った。「自然を見ながら食事をして、話をしようよ」
「この車、新しいの?」
「買ったのは2年前」
「こんな車買えるなんてお仕事うまく言ってるのね?」彼の近況をまったく知らない私は少しほっとして言った。
「妻が亡くなってお金が入った、それで買ったんだ、もう新しい車を買うことはないと思っていたけど、お金なんてどうにかなるものだね」私は彼の横顔を見ていたが、彼は私を見ずに口元に笑みを浮かべて答えた。
「ねえ、いまどんなお仕事してるの? 傑さんが今までどうしていたのか知りたい」
「今日は翠の気晴らしのために時間を使おうよ、オレの話なんか聞いても楽しくない、楽しくないことはやらないに限るよ」
彼はいつも優しかった。付き合っている頃も、娘のことで悩んでいた時に相談に乗ってくれた時も、でもいつも壁があった。彼に触れられると私の心は動いた。でも、私が触れても彼の心は動かなかった。彼は彼のままだった。私は彼がどんな人なのか本当は何もわかっていなかった。「誰も私のことをわかってくれない」そう思って、数年前に封印を解くように彼に電話をかけたけれど、彼のことを何も知らなかった私の事を、彼はわかってくれると信じていたのだ。人の内面て何なのだろう。
「ねえ、本当はいろいろあったんでしょう?」私は訊いた。
「まあ、生きていればいろいろあるよ、それでいいんじゃない? 何も起こらない人生よりいいことも悪いこともある人生の方が楽しくない? 遊び甲斐があるよ」
この人も人生を切り開こうとはしてこなかった、波に乗るように生きてきて、ふるい落とされてもまた別の波を見つけてそれに乗ってきたのだろう。
「翠の動きはいまもたおやかだね」彼は突然言った。
「たおやかって、どういう意味?」
「たという言葉からきてる、曲がりやすい、英語にするとフレキシブル」
「私の動きなんていつ見たの?」
「さっき車に乗り込むとき」
彼は前を向いてハンドルを握ったまま言った。私は彼の手を見た。年齢を感じさせない手、夫と比べてまったく男らしくない手、掌が薄くて指が長くて、苦労なんてしたことのない人の手をしていた。
「丹沢の山に近い場所にいい寿司屋があるらしくて一度行ってみたかったんだ、昼は予約を受けないんだけど問題なく入れるとネットに書いてあった」
横浜町田IC、東名高速道路、秦野中井IC、…夫の運転する車の助手席から何度も見た景色を過ぎる。何かが私の心に訴えようとするが、私はその正体を探りたいとは思わなかった。
店の建物のすぐ横にある五台しかとめられない第一駐車場は一杯で、私たちは少し離れた坂の途中にある第二駐車場に回った。
「前にドライブしたときも二人でお寿司食べたね?」
「うん、今でも覚えてる、とても珍しいお寿司をいただいたわ」
「でも、あの時は駐車場がいっぱいなんてことはなかったよ、すぐに店に入れた、…平日に二人で会社をさぼったからか」
「そうね」
あの時は思い切った冒険をした気分だったけど、この年になって振り返ると、生きていたら当たり前のように通る道を二人で通っていただけの気がする。彼が海外に転勤した後、二人が不倫していたことがばれていたことは社内の空気でわかった。他人のうわさ話をするのはきまって我慢している人たち。好きなことをして生きていられたら、きっと他人のことなんてどうでもよくなるのに。
さまざまな記憶がよみがえる。そして徐々にわかってきたことがある。
彼と過ごした時間を思い出して愛しむことはできても、あの時間をなぞることはできない。すべてが少しずつ異なっている。
駐車場から下りになった道を歩いて、寿司屋の引き戸を開けた。
店の中は木の香りがした。10人ほどの人が待っている。愛想のいい若い女性がいらっしゃいませと頭を下げ、用紙に名前を記入するよう促した。
「どのくらい待ちますか?」彼は訊いた。
「おそらく30分ほどでご案内できると思います」
「じゃあ、10分くらい散歩してきてもいいですか? 山が綺麗なので」
「かしこまりました、…ええと、アサカワさまですね、承りました」
私たちは外に出た。山が綺麗という言葉がぴんとこなかった。ずっと遠出していなかった私でさえももっと綺麗な景色は何度も見たことがある。
一度外に出て歩き出してから、彼はふと少し離れた場所の自分のメルセデスに目をやった。
「なんか、駐車の仕方がかっこ悪いよね、ちょっと直してくる」
「そんなことないわ」私はそう言ったが、確かに曲がっている。
「いや、気になる、すぐ戻るよ、ここでちょっと待ってて」彼は私をおいて、小走りに上りになった道を駆け出していった。
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「彩? ママだけど、ごめんなさい、今日は迎えにいけなくなってしまったの、一人で帰れるわよね? タクシー使っていいわよ、お金たりなかったら家にパパがいるから運転手さんに待ってもらって、ママは何時に帰れるかわからないけど、心配しなくていいわよ、疲れたでしょう? 気を付けて帰るのよ」
なぜこんなに落ち着いて娘の留守番電話サービスにメッセージを残せるのだろう?
頼れる人がこの世から誰一人いなくなり、自分一人でどうにかしなければいけなくなった気分だ。メッセージを聞いた娘はすぐに不穏さを感じるだろう。でも、他の方法を考える気にもならない。
いまだに意味が分からない、悲しいのか怖いのかもわからない。冷静になろうと努めているけど心の中は震えている、警察の事情聴取を受けた私は容疑者なのだろうか? 傑さんは車に引かれた。駐車場にとめた自分の車に。駐車位置を直した時にサイドブレーキの引き方が甘かった。シルバーのメルセデスは坂道を滑りながら加速し、前方にあった壁というか柵というか、とにかく無機質な構築物に向かって一直線に進んだ。歩いている途中で自分の車に巻き込まれた傑さんはそのまま車と壁の間に挟まれ、声も出せないままもがき、そして動かなくなった。おそらく今日のために洗車したばかりのメルセデスは、レッカー車が到着するまで傑さんの体を押しつぶした。傑さんの心肺は停止。私は救急車に同乗して病院に向かったが、彼は戻らなかった。私の目の前で、彼は自分の車に引かれて死んだ。
もし私が傑さんに連絡を取らなければ、彼がこんなふうには死ぬことはなかった。私も彼の死にかかわることはなかった。
私の家族にも少なからず迷惑がかかる。
そう考えたとき、「迷惑」という言葉が、まだ彼が生きていた数時間前に私を連れ戻す。
車の中で、彼はこう言った。
「娘はママにさんざん甘えてきたんでしょう? いいことだ、甘えさせてくれる人がいるって素晴らしい、迷惑をかけられる人がいるのは幸せなことだよ、誰にも迷惑をかけるなって教育をする人がいるけどそんなのは無理でしょう? 私だけにはいくら迷惑をかけてもいいから世間様には迷惑をかけるな、それが親というものでしょう? 翠はよくやったよ、娘は立ち直った? すごいことだよ」
あのとき私は素直に喜んだ。傑さんの言葉の残酷さがわからなかった。
私は彼に迷惑をかけないために身を引いた、もし私が彼に迷惑をかけるような行動を取ったらどうなっていたのだろう? それができなかった一番の理由は、たぶん優しい彼の豹変した姿を観たくなかったからなのだろう。もし私が我を通していたら二人の関係は最悪な結末を迎えただろう、そう信じていた。他の未来があったかもしれないなんて考えもしなかった。それなのに、彼は私の目の前で自分の車に引かれて死んだ。
私は彼を愛していた、だから迷惑をかけてはいけないと思ったのに。
彼に迷惑をかけることができたら、こんなふうには終わらなかったのに。
ねえ、これが愛の代償なの?
「ここでちょっと待ってて」それが彼の最後の言葉。私は何をいつまで待てばいいのよ。