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曙光が兆すとき

遮光カーテンの引かれた真っ暗な寝室で、一睡もできないまま時間が過ぎる。

枕の下に置いたスマホを手に取ると朝の4時。

昨日は睡眠薬を遠ざけた。薬を飲んだ翌朝はいつまでも眠気が抜けない。それがいやで飲まないと今度は一睡もできない。すでに私の身体は睡眠薬に馴染んでいる。

昨日見たテレビのドキュメンタリーを思い出す。

今の境遇から這い上がり、人生を切り開こうと必死な女たちをカメラが追いかけていた。うまくいかなければ惨めな生活を続けるしかない人たち。その立ち振る舞い、表情、話す言葉が、私の心をざわつかせた。

私は苦労もなく育ち、必死になることもないまま大学を出て、当たり前のように就職し、結婚して母親になった。生活に困ったことは一度もない。私の歩いてきた道は「恵まれている」という一言で片付く。「それなのに」と言うべきか、「だから」と言うべきか、必死に人生を切り開こうとしている人を見ると、私は何のために生きているのだろうと、羨ましくなる。

テレビのせいで眠れないなんて子供じゃあるまいし…。睡眠薬を飲まなかったから眠れなかっただけ。

「眠れなくても身体を横たえていれば疲れは取れるはず、睡眠薬なんて飲む必要ないよ。眠れなくても大丈夫だから」

ずっと昔に私にこう言ってくれた人のことを昨日から考えていた。だから睡眠薬を飲まなかった。


娘の葛城彩(かつらぎあや)は中学で不登校になり、そこからの数年間、私は自分の時間のすべてを娘に捧げた。それは、娘のためというより、そうせざるを得なかったから。必死に生きていたのは私じゃない。娘の方。

私の横では数年後に定年を控えた8歳上の夫、葛城勝彦(かつらぎかつひこ)が眠っている。昨日も今日も明日も夫はこのままずっと家にいる。

「目が霞む」という言葉を2年くらい前から夫は時々口にするようになった。「病院に行ったら」と私は何度か言ったけれど、「いまのプロジェクトは自分のサラリーマン生活の集大成になる、時間が惜しいんだ」と夫は自分の体のケアを後回しにした。

仕事で帰宅が遅くなった夜、歩いていた夫は自転車とぶつかった。自転車の運転手は逃走。幸い夫は地面に倒れこんだだけで、ケガというほどのケガはなかった。もちろん悪いのは自転車の運転手だが、横から来た自転車は夫の視界に入らなかった。

「視野の欠損」という現実を受け入れた夫は、私と一緒に眼科へ行ったが、担当医は「なんでもっと早く来なかったのですか?」と私たち夫婦を叱責した。緑内障が進行し、治療は手遅れ。見える範囲がかなり狭くなっていて車の運転は危険だからやめた方がいい。将来的には視力を失う可能性が高い。突きつけられた言葉を羅列するとこんな感じ。夫は激しく動揺し、その日から身体の不調を訴えるようになる。本人も私も精神的なものと考えていたが、精密検査で肝臓にがんが見つかった。そこからは防波堤が決壊したかのようだった。仕事の疲れで目がかすんでいたはずの夫はすっかり病人へと変わった。

「なぜオレがこんな目に合わなければいけないんだ…、ずっと真面目に頑張って来たのに」絶望している夫に私は心から同情する。だって、夫の仕事に対する情熱をずっと見てきたから。いつも全力で頑張った人だから。

情熱をかけられるものなど私にはない。


私は一生懸命頑張ったことがあるのだろうか?

考えても何も出てこない。でも、心の中に隠していることが一つある。

20年近く前に社内で不倫をしていた。その相手と一緒になりたいと本気で願った。結婚をしてから初めて本当の恋というものを知り、本気で人を愛した。甘い時間にどっぷりと浸っていた時に、彼の海外転勤が決まった。

「ついて行きたい」私は言った。

「そんなことをしたらお互い会社にいられなくなるよ」と彼は返した。

仕事が終わって家に戻り、帰宅の遅い夫とは顔を合わすこともなく、私は毎日ひとりで泣いた。結局は彼のために身を引く決意をした。どうしようもない空虚さを埋め合わせるため、私はこれからの人生を別の誰かのために生きようと決めた。そして数年間からだを合わせることのなかった夫とからだを合わせ、娘を授かった。一度きりの本当の恋は、思い出として心の奥に隠した。彼に注いでいた愛情を娘に注いだ。

出産を機に私は会社を辞めた。夫は私が家庭に入ることを喜んだ。

数年が経ち、私が子育てに追われ身動きがとれない頃に、彼は帰国して本社に戻った。それから間もなく、海外勤務で知り合った人に誘われ、ベンチャーに参画するために彼は退社をした。その事業は結局うまくいかなかったという話は人づてにきいた。

毎年、誕生日に彼はメッセージを送ってくれた。私も彼の誕生日にはメッセージを返した。彼からのメッセージには、近況報告の類は一切なく、「良い一年を」というあたりさわりのない文字だけが綴られていた。

娘が生まれてからは、彼の声さえも聞いたことがなかった。


4年前。娘が中学2年の時、私は彼に電話をした。「助けて」とすがりたかった。

私に似たのか、娘は小さい頃から他人と争うことが嫌いな性格。大学までエスカレーターで行ける私立小学校が最適だと私は信じた。

まさか娘が学校に行きたくないと言い出すなんて。

電車通学が辛いのかと、近所の公立の小学校に通わせることも考えたが、娘は「友達と離れるのは嫌」と主張した。私は毎日電車で送り迎えをした。帰宅してからは「彩さんは具合が悪いそうなので迎えに来てください」という学校からの電話に脅えた。脅えたところで、週に一度か二度か確実に電話が鳴る。収まるべきところに収まらない状況に私は対峙したことがなかった。

娘がまともに学校に行けないのは、母親の私が甘いから。夫は言った。

中学に上がると、娘は「学校に行きたくない」から「学校に行けない」へ変わった。

話を聞いて慰めてくれる友達はたくさんいたが、彼女たちの慰めの言葉はすべて見当違いに響く。「誰も私をわかってくれない」と使い古された言葉が胸のなかでどんどん大きくなる。もうどうしようもなかった。私に寄り添って、私の側に立って話を聞いてくれる人は世界に一人。何年も会っていないけど、彼は変わらないはずだと信じて疑わなかった。

電話に出た彼は、明るく相槌を打ちながら私の話を聞いてくれた。

「大変だけど大丈夫だよ、そのうちきっと光が見える」

そう言ってくれたのは彼だけじゃない。何人かの友人は同じことを言ってくれた。でも、私は彼女たちに心を閉ざしてしまった。私の苦悶が伝わっているとは思えなかった。それなのに、彼の言葉は私に光をくれた。私は愛情に飢えていたのだろう。

それから私は、自分がつぶれそうになると彼に電話をした。彼と話ができると思うと、娘のわがままに振り回される日常が少しだけ明るくなった。彼と話している間だけ、私は笑うことができた。1年もするとその時間は現実逃避だと認めざるを得なくなる。娘が学校にいけない日数がどんどん増え、私を包む闇はさらに深く黒くなる。彼に電話をかける間隔が開き、ついには彼の中に私が勝手に見ていた光が見えなくなった。

2年前の誕生日にメッセージをもらった時、私はこう返信をした。

「もう、こういうことしないでほしい、私のことは放っておいて」

あの時の私は、生きていくうえで何一つ希望がなかった。娘は結局中学には半分も行けなかった。高校には進学できたが状況は改善せず、出席日数の問題で学校からは退学を迫られた。すべての努力が水泡と化した気がした。衝撃さえもなく、ただそうなるしかなかったかのように。40代も終わりに近づき、かつての不倫相手からメッセージをもらいつづけることの罪悪感などやり過ごせていたのに、それもできなくなってしまった。

スマホに自分で登録した彼の名前を見つけると、条件反射のように過ぎし日の記憶と言葉にならない感情がよみがえった。

昔話に永遠と追いかけられるほどに私の精神状態は破綻していた。同じことを何度も思い出し、そのせいで記憶が定着する。

不倫を終わらせる決意をしたのは私。彼が望んだのは自然消滅。

彼がいなくなったオフィスに変わらずに通えるほど、仕事は私にとって必要なものではなかった。結婚は早くした方がいい、という親の助言に従ってとりあえず結婚した私が家庭に入るまでの時間を引き延ばすための時間と場所を提供してくれたのが会社だった。私たちの不倫に気づく人は少なくなかった。ただ、彼は仕事ができた人だったからみんなが口をつぐんだが、私が一人が残されたらそうはいかなくなる。嫌でも空気でわかった。

彼との不倫をあのときに終わらせていなかった、娘はこの世に誕生することもなかっただろう。不登校で苦しんでいる娘の横でそんなことを思う最悪の母親。私は自分が許せなかった。

私は自分の記憶を壊してしまうしかなかった。結局、そんなことはできない。



1時間がたち朝の5時。ずっと彼の事を考えている。

もう無理。辛くて我慢できない。助けてほしい。カーテンのせいで部屋には曙光が差さない。

私は静かに寝室を出て、すがるようにスマホの発信音に意識を集中させた。

(みどり)、どうしたの?」すぐに声が返って来た。

「ごめんなさい、(すぐる)さん、もう連絡しないでって私の方から言ったのに」

「そんなこと、気にしなくていいよ」

浅川傑(あさかわすぐる)は、昨日の会話の続きのような口調で言う。

「とても辛くて…、だから電話したの」何度か彼に対して使った言い訳がましい言葉を私はまた繰り返す。

「聞くよ、なんでも話して」

「夫がかわいそうなの、それなのにすぐに喧嘩になってしまうの」

私は彼の反応をうかがったが、彼は黙って私の言葉を待っている。私は心の内をさらけだす。

「夫が前から目が霞むといっていたの、検査したら緑内障だった、病院に行ったらかなり進行していて、なんでもっと早く来ないんだって先生に怒られちゃって、もう治せないらしいの、進行を遅らせることしかできないって、いつかは目が見えなくなるかもしれない」

「そうなんだ」

「それだけじゃないの、肝臓にがんも見つかった、放射線治療を勧められてるけど、とても前向きに考えられる状態じゃないの、精神的に追い込まれちゃって…、仕事はリモートに変えてもらったの、しばらくは出社する必要もないって、ずっと行かなくてもこのまま定年まではいられると思う、あと3年だし今まで会社に貢献してきたから、贅沢しなければこのまま暮らしていけると思うわ」

「ふうん」

「夫はね、今までずっと真面目に努力してきたの、業界内でもそれなりの地位を築いてきたの、だから『どうしてオレが?』って言われちゃうと、私かける言葉がないの、…ドライブが好きな人だったの、でももう車も運転できないって」

「大丈夫、自動運転が広まれば車は運転するものじゃなくなるよ」彼の口調は優しい。

「そうかな」私は少しだけ笑った。「でも、人が変わっちゃったのよ、オレの気持ちわかるわけないだろうって怒ったり、通勤している人を見ただけで輝いて見える、羨ましい、って落ち込んだり、私が側にいないと怖いから側にいてって泣きながら懇願したり、感情の起伏にずっと振り回されて、私もう疲れちゃった…、夫は精神科にも通いだしたわ、薬飲んでるけど効いているのかもわからない、私も不安になったら飲むように言われてる…」

「精神的に病んだ人とは距離を置かないとね」

「うん、お医者さんにも同じこと言われたわ、なんでもかんでも私に頼るし、…いい加減にしてって怒ったこともあるわ」

「翠が怒るんだ? 想像できないな」

「私だってそう、こんな人間じゃなかった、でもね自分の中で限界なのよ、…私が怒ると夫は言い返せず涙を流すのよ、そんなことされると私簡単に共感しちゃう、突き放せないの、だから余計に自分が辛くなる」

「翠が潰れちゃうよ」彼は夫にではなく私に同情するような口調で言った。「いつから精神科に?」

「先月から」

「まだ1か月か…、今は絶望してるかもしれないけど一年もたてばそれが日常になるでしょう、絶望なんて永遠にはしていられない」

「そういうものかな…」

「昔ね、医者の友達に聞いたことがあるんだよ、そいつは内科医なんだけどね、精神科医のことどう思うかって、…もちろん、彼の個人的な意見だしバイアスはかかってると思うけど、精神科医は医者じゃない、そもそも患者を治さない、そう言ってたよ、頭のおかしくなった患者の話を聞いて優しい言葉をかけるのが精神科医の仕事、患者に共感したら自分もおかしくなる、だからそうならないように彼らは感情のスイッチを切ってるんだ、精神科医を長く続けるとみんな同じような顔つきになるんだ、彼はそう言っていたよ、彼の言う『みんな』というのは、もしかしたら二人か三人かもしれないけどね、…まあ、残念ながらオレには精神科医の友人がいないからそちら側の意見は聞けないけどね」

「夫の主治医の先生も、『一日中ご主人とかかわらず、一人になれる時間を作ってください』て言ってくれた」

「当たり前だよ、翠、人間は楽しむために生きてるんだよ、辛いことが起こるのはしかたがない、それでも楽しまないとね、楽しむ努力を怠るなんてよろしくないな」

「…なんか、傑さんてそういう人よね、昔から、…傑さんはそういう努力をしたから今も健康でいられるの?」

「それは関係ないよ、努力したからうまくいく、努力したけどうまくいかない、努力しなくてもうまくいく、努力しないからうまくいかない、この四通りがランダムで繰り返されているだけじゃないかな? 世の中って」

「そこまで達観出来たら羨ましいわ」

「そうかな? そんなつもりはないけど…」

「もう一つ心配なことがあるの、来週娘が帰ってくるの」

「どこに行ってるの?」

「ロンドン」

「ロンドン? すごいな、従妹のところ? カナちゃんだっけ? 旦那はヘンリーだったよね?」

「すごい、覚えていてくれたの?」私は驚いた。「実は避難させたの、最近家の中がものすごく暗いから」

「娘は何年生になった?」

「高三なんだけど、結局あの学校は辞めて通信制に変えたの、でも去年から塾に行きたいって言いだして通い始めた」

「塾は行けてるの?」

「うん、楽しいみたい」

「すごいな、娘は乗り越えたじゃん、一人でロンドンに行ってもう怖いものないな」

「ありがとう、…ごめんなさい、なんかそう言ってもらえてうれしくて涙が出てきちゃった、私がロンドンに行かせるって言ったとき、夫は反対したの、甘やかせすぎだって、いつも現実から逃げてるだけだって、娘もね心療内科に通ってる、自分が精神科に通うことになって夫は少しは娘の辛さを分かってくれるかもって期待したけど、『本当の病気が原因で精神科に行っている自分と現実から逃げて心療内科に行っている娘は違う』なんて言うのよ、しかも本人の前で」

「しかたないよ、いまは地獄を見てるんだから、誰に対しても同情も共感もできないよ、求めるだけ酷だよ」

「そうね、地獄、…夫もそう言ってる、なんで真面目に一生懸命頑張ってきたオレが地獄に落ちなければいけないんだって、本当にかわいそう」

「いやいやいや、それは甘すぎだな、まだ地獄を上から覗いただけだよ、どこまで深いか全然わかってない、いままで誇れる人生を送ってきて、いまは支えてくれる奥さんがいる、全然地獄のうちに入らない、いい思いをしたこともなければ支えてくれる奥さんもいない、そんな人が世の中にいくらでもいるよ」

「そうね、そうよね」

「まあいいじゃん、娘が立派になったんだから」

「でも帰ってきちゃうから不安なの」

「ごめん、何が不安なのかよくわからない…」

「だから、夫は娘に厳しいことばかり言うのよ、娘は娘で、親に迷惑かけてきたと思っているから言い返さない、このまま一緒にいたら娘がまた不安定になるんじゃないかと思って、それでロンドンに避難させたのに、でもずっと従妹の世話になるわけにもいかないでしょう?」

「そういうことか…」

「夫はそれも甘やかせてるっていうのよ、ロンドンなんて遊びに行ってるだけじゃないかって…」

「何がいけないのかよくわからないな、人間は遊ぶために生きているものだと思うよ、だけどね、遊ぶにも才能がいる、お金と時間があっても遊び方のわからない人が世の中にはたくさんいる、もったいないよね、そのお金と時間を少しでもわけてもらえたらオレは遊べない人の十倍くらいは楽しく遊べると思うよ、ねえ、翠もちゃんと自分のために時間を使いなよ、何のために生きているのかわからなくなる」

「それはわかっているんだけど…、一人で外に出ても家族のことが頭から離れない、何年もそう…」

「ロンドンで思い出したけど、イングランドにサッカーのFAカップっていうトーナメントがあるんだ、その決勝のチケットは相当取るのが難しいらしい」

彼はサッカーが好きだった。一緒に試合を見に行ったこともある。よくわからないけど楽しかった。彼と別れてからはサッカーなんて見ることもなくなったけど…。彼は話を続けた。「ある男がFAカップの決勝に行って自分の席に座った。隣に男が一人でいて、その横の席が空いている。試合が始まってスタジアムがぎっしり埋まってもその席は空いたままだ、そこで隣の男に訊いた、『ここはあなたの連れの席ですか?』、隣の男が答えた、『そう、でも妻が来るはずでしたが、都合が悪くなりました』男はまた訊いた『FAカップの決勝ですよ、もともと予定した人の都合が悪くなっても代わりに来たい人は誰かしらいるでしょう? 友人とか、兄弟とか』すると隣の男が答えた『みんなダメなんです、今日は妻の葬式なのでそっちに行ってます』、…この話の何が面白いかって訊くのは野暮だよ、たいていの面白いことは何か面白いかを説明したとたんに面白くなくなるから」

彼は楽しそうに話す。彼が不機嫌に話すのを見たことがない。私は結局彼の心の中に踏み込めなかったということか…。私は急に寂しくなった。

「ごめんなさい、こんな時間に電話して、夫の呼ばれると思うからそろそろ切るね」私は今さらながらに言った。

「こちらのことはいいよ、起きて仕事の準備しようと思っていたから」

「奥さん、不審に思わない?」

「別れたよ」

「そうだったの?」

「そう言った方がいいでしょう?」

「噓?」

「翠に嘘は言わない、正確に言えば、妻が亡くなった後に別れた」

「え、奥さん、亡くなったの?」

「うん、病気でね」

「いつのこと?」

「去年」

「ごめんなさい、知らなくて、それはご愁傷さまでした」

「言ってないし、それに終わったことだから、…オレの話は、今はいいよ」

私は返す言葉が見つからず、「また電話しても大丈夫」と訊いた。

「もちろん、あまり根を詰めないで、もっと楽しく生きてよ」

「話してると傑さんは昔のままね」

「翠だって」

「そうかな?」

「人間はそんなにかわれるものではないと思うよ」

私は電話を切った。

楽しく生きなかったら人間を続ける意味がない、人間は遊ぶために生まれてくる、人間はそんなにかわれるものじゃないよ、 彼の言葉が頭の中で反響する。寝室のドアを開けるとまだ灯りがついていない。ドアを閉めると真っ暗になった。私は暗闇の中でベッドの端に腰を下ろし、夫の気配を感じた。なんて残酷なことを言うのだろう。夫があまりにもかわいそうだ。そう思いながら、夫に意識を集中させることができなかった。私は、残酷なことを平然と言える傑さんにひかれた、それをいま思い出した。


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