破壊
夜になるとようやく気温が下がってきた週に、すみれは南出からの連絡を受けて、松のエリアに向かうところだった。
お昼を過ぎた頃でまだ気温は高く、急ぎ足で歩くすみれはすぐに汗ばんでしまう。
しかしそんなことには構わず駅からの道をすみれはほとんど駆け足で急ぐのだった。
家にいると、急に自分の携帯が鳴った。
画面が「南出」と表示されていた時は何か忘れ物でもしたのだろうか、と悠長なことを考えてすみれは電話に出る。
しかし、響いて来た南出の声色に切迫したものを感じてすぐに背筋が伸びた。
「月山さん・・・・、急に連絡してしまって申し訳ない」
「いえ、どうしたんですか?」
「あの、荒栄さんがやっているパン屋なんだけど」
「ええ」
「昨日の夜、誰かが侵入して店が滅茶苦茶に壊されていたんだ」
南出は悲しげにそう言った。
「ええっ!!」
すみれは思わず大きく叫んでしまう。
「今日の朝、早番のスタッフが店に出勤したら窓ガラスが壊されていて、それで中に入ると店のいろんなものが壊されていて」
「そんな・・・・」
「すぐに警察を呼んで現場を見てもらって、それでようやくさっき検証が終わって・・。月山さん、荒栄さんと仲が良いから知らせておいた方がいいと思って」
「すぐそちらに向かいます!」
「月山さん、今日用事はないのかい?」
「大丈夫です、行きます!」
「ありがとう、月山さん」
南出はホッとしたように礼を言った。
いったい誰がそんな事をしたんだろう、と松のエリアにへ急ぎながらすみれは思う。
疑問と、悲しい気持ちが相まって頭は混乱したままだ。
そのうち怒りが込み上げてくる。
荒栄さん達が何をしたというのだろう。
美味しいパンを一生懸命作って、売ってただけだ。
店を壊されるような事はこれっぽっちもしていない。
気持ちがささくれ立つのをすみれは止められなかった。
やっとパン屋が見えてくる。
するとそこに、項垂れている荒栄さんの姿が見えた。
そばに南出さんが寄り添っている。
すみれは胸がいっぱいになって走り寄って行く。
「荒栄さん!」
呼びかけられた荒栄さんが顔を上げすみれを認めると、弱々しく微笑んで頭を下げる。
「すみれちゃん、来てくれてありがとう。ごめんね」
すみれはぶんぶんと首を振った。
何か声をかけようと思ったが、言葉が出てこない。
南出さんも礼を言う。
「月山さん、わざわざありがとう」
「いえ」
「店ね、壊されちゃた」
荒栄さんがポツリと呟く。
すみれは店の方を見た。
店のファサードの窓ガラスが無惨に割られ、中の空間が直接見えてしまっていて、すみれは息を呑む。
すくむように近づくと、店の内部が伺えた。
店舗の床に大きな石が転がっている。
どうやらそれが投げ込まれたらしい。
割られたガラスを通して店の中を覗く。
すると、店の棚やテーブルは全て引きずり倒され、何もかも元の位置にありそうなものは無い。
トレイや皿、レジ、カウンター内の袋、包装紙、筆記用具に至るまでぶちまけられ、破られ、壊されている。
執拗に破壊が行われた形跡を感じて、すみれはまた息を呑んだ。
後ろから南出の沈んだ声がした。
「こんな事して何になるんだろうね」
すみれが振り返ると、南出が横まで来て腕を組んだ。
その横顔に厳しい表情が浮かんでいる。
「私達老人への八つ当たり?この頃いろんな老人があちこちで問題を起こしてるらしいからね」
「・・・・・・・」
「腹いせにこんな事して。真面目に努力している弱い立場の人に対してこれは無いと思わないかい?」
南出の声は少し震えていて、組まれた腕は何かを堪えているようにも見えた。
すみれは無惨に壊された店を見つめたまま頷くことしか出来なかった。
「荒栄さん、大丈夫ですか」
すみれが荒栄さんのそばに寄って声をかけると、
「ええ、すみれちゃんが来てくれて嬉しいからちょっと気持ちが落ち着いたわ」
荒栄さんはさっきの弱々しいものでは無くて、にっこりした笑顔を見せた。
「本当にひどいです」
「滅茶苦茶よ、誰がやったんだろうね」
「どうしてこんな事出来るのかわかりません」
荒栄さんはため息をついた。
「老人が邪魔なのかしらね」
「そんなことありません!」
すみれが強く否定すると荒栄さんは
「すみれちゃんみたいな人がたくさんいたらいいのにって思うわ。でも実際には私達みたいな老人を煙たく思う人増えてるみたいで、居場所が無いみたいに感じちゃう」
「そんな風に思わないでください」
「ありがとうね」
荒栄さんは寂しそうに微笑んだ。
その時、
「あの」
と女性の声がした。
すみれと荒栄さんが振り返る。
そこには若い女性が立っていた。
そばに小さな女の子を連れている。
幼稚園児くらいの女の子を伴った母親のようだ。
「はい?」
荒栄さんが答えると、
「あの、ここのお店の方ですか?」
その母親が尋ねてきた。
「ええ、そうです」
「何かあったんですか?パンを買いに来たんですけど」
「あら、そうでしたか」
荒栄さんはちょっと微笑むと、済まなそうに
「実は昨日の夜、誰かに店が壊されちゃってパンが売れないんです、ごめんなさいね」
と謝った。
「ええっ、本当ですか?」
母親はびっくりした声を上げる。
そして店が散々に荒らされている状態を見て絶句すると口を押さえた。
その表情に不安を感じたのか、女の子が母親にしがみついて見上げる。
「ママ、どうしたの?」
母親がしゃがんで頭を撫でる。
「えなちゃん、今日、パン買えないみたい」
「え〜、明日はぁ」
女の子は少し口を尖らせる。
「明日もかな」
「え〜、どうして?」
荒栄さんが女の子のそばに寄ると微笑みかけた。
「ごめんね、パン屋さん、おやすみしなくちゃならなくなったの」
「え〜」
女の子はうつむいて、ポツリと不満の声を上げるとチラッと母親の方を見る。
すると母親が自分ではなく、痛ましげな表情で店を見詰めているのに気づいた。
「?」
そして母親と同じ方向に目線を合わせる。
そこで初めてガラスが割れて破壊された店の様子が目に入ったのか、小さな身体を強ばらせた。
どうやらただならぬ状態を感じ取ったらしい、
「お店、こわれちゃったの?」
とためらいがちに聞いてきた。
荒栄さんは沈んだ声で、
「うん、そうなの。だからパン、食べさせてあげられなくてごめんね」
と謝った。
「パン屋さん、かわいそう」
女の子はまた店を見ると顔を曇らせる。
そして荒栄さんを心配そうに見上げた。
「パン、また食べられる?」
荒栄さんは肩をピクリとさせる。そして悲しげな顔をした。
「どうかな、わからないの」
その言葉を聞いて女の子はうつむいた。
その様子を見かねたのか、母親がやさしく口を出す。
「えなちゃん、ダメよ。おばさん困らせちゃ。他のところのパン買おうか?」
「やだ。ここのパンがいい」
えなちゃんと呼ばれた子は口を結んで言った。
母親は困った顔をして荒栄さんを見ると、
「すみません、この子、ここのパンが大好きで・・・。ほら、えなちゃん、今日はもう行こうね」
とえなちゃんを促した。
「うん・・・・・・」
えなちゃんは頷いたが、荒栄さんをまた見上げて、
「おばちゃん、またくるからね」
としっかりした声で言った。
その言葉に荒栄さんは、
「うん、うん、ありがとうね・・・・」
と少し語尾を震わせながら感謝の言葉を口にする。
「さ、えなちゃん、行くよ」
母親はえなちゃんの手を握ると、荒栄さんに目礼をして去っていった。
二人が去っていった方向を、荒栄さんはじっと見つめていた。
その目には少し涙が浮かんでいるように見えた。
「荒栄さん・・・・」
すみれが呼びかけると、
「何か、あの子に元気もらっちゃった。またパンをあの子に食べてもらえるよう頑張らなきゃね」
と言ってすみれの方を向く。
その目にはもう力強さが戻ってきていた。
「はい!私も手伝います!」
すみれは何度も頷いた。




