お礼
そう言って振り向いた男性の顔に、すみれは見覚えがあったので呼びかける。
「すみません、先日の夜ここで」
すると男性はすみれを見て訝しげに首を傾げたが、すぐに思い当たったようで頷いた。
「ああ、あの時の」
男性の皺の寄った顔は穏やかで人懐っこそうな表情が湛えられている。
人の良さそうな感じが滲み出ていて、すみれはあの怖かった夜、こんな人に会えて幸運だったんだなあ、としみじみ思った。
「やはりジュンさんでしたか」
橋方がやって来て男性に声をかける。
どうやら二人は顔馴染みのようだった。
「ああ、橋方さん。アンタ、この娘さんとお知り合いなのかい?」
「ええ、この方はリゾートの配給のボランティアをやっていただいてるんです」
「ああ、そういえば、こないだそう言ってたかな」
「あの、こないだは本当にありがとうございました。私、月山と申します」
すみれは頭を下げた。
「ああ、そんなの良いよ、無事に帰れてよかったね」
ジュンと呼ばれた男性は手を振った。
「はい、あの時はとても助かりました。私、怖くてどうしたら良いか分からなかったんです。そんな時に声をかけてくださって有難かったです」
「本当に良かった。そういや自己紹介してなかったね。みんな自分のことジュンって呼んでる。月山さんもそう呼んでくれればいいよ」
「はい、ジュンさん」
ジュンさんはニコッと笑った。
「もしかしたらわざわざお礼を言いに来たのかい」
すみれはコクっと首を縦に振った。
「はい、そうなんです。橋方さんに手伝ってもらって」
「そんな事までして来てくれて、ありがとうな」
「いいえ、運良くお会い出来て良かったです。それも橋方さんのおかげです」
すみれは橋方の方を見ると、頭をまた下げる。
「月山さんが律儀なので手伝ってあげたいと思ったんです。
話を聞いて、もしかしたらジュンさんかな、と思いましたが、それにしてもこんなに早く見つかるとは思いませんでした」
橋方は微笑んだ。
「ともかく無事に帰れたのがわかってこっちも安心したよ。そういえば、あの夜はあそこら辺で座り込んでたもんなあ」
そう言ってジュンさんは傍らのバラックを指差す。
それはブルーシートと廃材で作った四角い小屋だった。
よく見ると鉄パイプなども使われており、しっかりとした作りになっているように見える。
ブルーシートで外側が覆われており、テントで言う前室みたいなスペースまであった。
あの夜の時は周囲を見渡す余裕はなかったが、今こうして見るととんだ所に逃げ込んでいたんだなあ、とすみれはしみじみ思った。
「あの、こちらがジュンさんの家でしたか」
「ああ、そうだよ」
自分が通ってきたたのはたぶんここだろう、と見当をつけたのはジュンさんの家と、その隣のバラックの隙間で、覗いてみると路地とも言えない狭い道が奥の方に伸びている。
一体どうやってこんな狭いところを通ったのか今となっては分からないが、よくここまで逃げてきたと思う。
もう梅のエリアの夜には絶対近づかないようにしよう、とすみれは思うのだった。
そのすみれにジュンさんが提案する。
「とりあえずこんな暑い中で立ち話もなんだし、座れるとこ行かないかい。橋方さんもさ」
「あ、すみません」
すみれがそう返すと、橋方も同意した。
「ええ、じゃあ私も」
「なら椅子を持っていこうね」
ジュンさんはいったん小屋に入ると、小さな折りたたみ椅子を二つ持ってくる。
「じゃあ、こっちへおいで」
そう言って歩き始める。
すみれがその後について行くと、ジュンさんは自分の小屋とは通りを挟んで反対側へ向かう。
そこにもテントや小屋が並んでいるが、その隙間にジュンさんは入っていった。
すみれ達も続いて入るとすぐそこは草むらで、木々が生い茂っている。
どうやらリゾートに隣接している公園に進入していくようだ。
木々はそれほど密集しておらず、歩きやすい。
しばらく分け入っていくと、木々の合間にぽっかりと空いた小さい広場のようなところに出た。
その広場のような地面には草が生えておらず、地面がむき出しになっている。
驚いたことに、そこには座りやすいように大きな石やケースが設置され、ベンチのように丸太まで組んであった。
ジュンさんはそこまで来ると振り返って
「さあここ、ここ。日差しも入らないし過ごしやすいよ」
と言って持ってきた椅子を設置すると、
「どうぞ。座って」
とすみれ達にすすめた。
すみれは辺りをキョロキョロ見回した。
よく人が利用しているのか、広場の地面には小石も取り除かれ落ち葉もない。
木の根も露出せず平らになっている。
日差しが遮られているので、気温が低く感じられた。
静けさの中で時折鳥の声がして、耳が安らいでいく。
上を見上げると、木々の合間から青い空が見えた。
すごく落ち着く空間だなあ、とすみれは思い、
「すみません」
と言って勧められた椅子に腰を下ろす。
座るとすぐに寛いだ気分になった。
橋方も同じように椅子に腰掛けて足を伸ばしている。
ジュンさんは傍らの大きな石に腰を落ち着ける。
「ここ、中々良い場所でね、ここら辺の人はみんなオアシスって呼んでるよ。憩いの場ってところかな」
「本当ですね。街の中とは思えないくらい静かで落ち着きます」
「でしょう」
ジュンさんはニコニコする。
「みんなここで癒されているよ。他の人が来ても気にせずそれぞれ思い思いに寛いでるんだ」
「いい場所ですね」
ジュンさんは頷くと大きく伸びをした。
「今日はたまたま仕事しないでいて良かったよ。訪ねて来てくれたのに、居なかったら申し訳なかったものね」
「あ、いえ、かえってお邪魔だったかもしれません」
すみれが少し恐縮するとジュンさんはぶるぶると首を振った。
「そんなわけないさ。わざわざ訪ねてきてくれてこっちはすごく嬉しいよ」
「私は月山さんを助けてくれた相手を探し出せてホッとしてますよ」
橋方さんが安心した様子で笑った。
「ジュンさん、どんなお仕事されてるんですか?」
すみれが気になって尋ねると、ジュンさんは頭を掻いた。
「大した仕事じゃないよ、みんなやってる廃品回収さ。あとは時々日雇いの仕事もしてるけどね」
「ジュンさんは結構稼ぎますよね。すごく精力的に働いている」
「それほどでもないよ。これでもいちおう働かなきゃね、食っていけないだけさ」
橋方さんの感心した様子に、ジュンさんは照れたように笑う。
「お二人共お知り合いだったんですね」
「ええ、ジュンさんは私より長くここにいるんですよ。前は竹のエリアにいましたが、今は梅に来てるんです」
「橋方さん、その話は」
「いいじゃないですか、ジュンさん」
二人のやり取りを聞いてすみれが尋ねる。
「何かあったんですか?」
「ジュンさん、以前は竹のエリアでマンションの部屋に住んでいたんです」
「え?そうなんですか?」
すみれは意外に思う。そして当然のごとく疑問を感じる。
なら何故今は梅のエリアで小屋を作って住んでいるのだろう。
橋方はさんは話を続けた。
「けれどリゾートの入居を希望する方がだんだん増えましてね。当時竹のエリアでも困っていたそうです。
そうしたらジュンさんが、自分が部屋を出て行くから他の人に部屋を上げてくださいって提案したんですよ。そうしてこの梅のエリアに来たんですが、そんな人は初めてなので私は覚えていたんです」
「本当ですか?!」
すみれがびっくりしてジュンさんを見ると、彼は頭をポリポリ掻いた。
「まあ、お金も乏しかったし、マンションの部屋同士の付き合いも面倒だからいいかなって。それだけだよ」
すみれはそのこだわりの無さに驚く。そんな事で自分の住む場所を明け渡すなんて信じられなかった。
自分には到底真似できない行動だ。
「そんな、住む場所が無くなったらどうしようもないじゃないですか」
「ああ、何かにこだわるのが苦手なだけだよ。部屋とか、お金とか、そんなこだわっていてもロクなことないからね」
「そういうものなんですか・・・・」
「そうだよ。結局今は何とかなってるし。気楽だよ」
ジュンさんは屈託なく笑った。
ちょっと自分には考えられない行動だ。
その執着の無さは何処から来るんだろう、どんな人生を経たらそういう考えに至るんだろう。
そう思うすみれはその時自分の手に、生暖かい息が当たるのを感じた。
「えっ?!」




