逃走
すみれが声のした方を見ると、中年の男が立っていた。
黒いポロシャツにジーンズ、白のスニーカー、首には金のネックレス、いかにもガラが悪そうな風体だ。
「ねえ、君ちょっと若くない?なんでここにいるの?訳アリかな」
いきなり話しかけられてすみれは萎縮する。
「いえ、通りがかっただけです」
「そんな事ないでしょ?ここどういうトコかわかって来てるよね」
「?」
すみれは男の言っていることがよく理解できなかったが、相手にしていたらトラブルになりそうなので
「もう帰りますから」
と言って広場を立ち去るために歩き出した。
「ちょっと待ってよ、まだ話終わってないよ」
男は引き留めようとする。
その態度に危険なものを感じてすみれは足を早めた。
「ねえ、待ってよ」
すみれは黙って足を運ぶが、男はしつこく付き纏ってくる。
怖くなってすみれは小走りになった。
「なあ、逃げんなよ、」
急に男の態度がぞんざいになった。
「話あるって言ったろ?待てよ」
男は走ってすみれの進路を塞ぐ。
「やめてください」
「いや話するだけだから」
すみれが男の脇を通り過ぎようとすると肩を掴まれる。
「何するんですか」
「なあ、聞けって」
「やめてください」
すみれは怖くて言葉が出てこなくなり俯くしかない。
近づくと男の香水が鼻をついて不快だった。
「なあ、あそこにいるんならわかるよね。」
「何の事ですか」
「いやいや、冗談でしょ、条件何?君なら奮発するよ」
すみれは男が何を言いたいのか分からず混乱した。
「わかりません」
「嘘でしょ、聞かせてよ。条件」
さっきから男が言ってる事が分からず不安にかられるばかりで、すみれはとにかく逃げる事を考える。
すると右手にマンション棟の間の路地があるのを見つけたので、飛び込むように駆け出した。
すみれの俯いておとなしそうな感じにいったん安心していた男はすっかり虚をつかれる。
「ちょ、おい」
ボランティアの作業のためにパンツスタイルだったので走りやすい。
マンションの間の路地を通り抜けながらすみれは必死に足を動かす。
「おい!逃げんな」
後ろから男の怒鳴り声が響く。
すみれは恐怖を感じる。
まだ広場の周辺なので、少し土地勘はある。行き止まりにならないようにすみれは細い路地を駆け抜けた。
けれどすぐに追いつかれるだろう、今度捕まったら何をされるかわからない。
そう思うとどんどん怖くなり脚が強張ってしまう。
すみれはとにかく必死に走った。
「オラあ、待てえ!」
男の怒鳴り声が背中に当たってきてすみれはますます恐怖に駆られる。
建物の間を縫うような狭い道を通り抜け、よく分からない棟の軒先を走っても男は執拗に追いかけてきた。
すみれは足元が覚束なくなり、絶望的な気分になる。
男の足音が次第に迫ってくる。
ある角を曲がる。
するとバラックが雑然と並んでいるのが目に入った。
すみれはすぐにそばのバラックの陰に入りこみ、しゃがんだ。
あまり街灯の明かりが届かず、暗がりの多い所で隠れるのには良さそうに思える。
音を立てないように荒くなった呼吸を必死に押し殺す。
目をギュッとつぶって震える身体を落ち着かせる。
もう走れない。
怖い。
足音がして、男の息遣いが聞こえてくる。
「ちっ、ふざけんな」
男はすみれの姿が見えなくなったので苛立ちを隠さない。
足音が近づきすみれは身体をすくめた。
どうか見つかりませんようにと念じる。
「くそっ」
男は周りを見渡しているようだが、バラックの方には近づいてこない。
どうやらバラックの住人と関わるのを避けたいようだ。
やがて足音が遠ざかってゆく。
すみれはひとまずホッとして、溜め込んでいた息をはく。
心臓がまだバクバクして鼓動が止まらない。
とてつもなく怖かった。
あの男に捕まっていたら本当にどうなっていたかと思うと、まだこの場所を動けなかった。
ペタンと座り込んでガクガクしている脚を伸ばす。
「はあ・・・」
小さく息を漏らす。
これからどうしよう、しばらく時間が経ってからここを離れようか、などと考えていると、
「どうしたんだい?」
いきなり声をかけられた。
「きゃっ」
男に見つかったのか、と思って悲鳴を上げる。
恐る恐る声のした方を窺うと、老人が立っており、座り込んだすみれを見下ろしている。
あの男ではない、と気づいて少しホッとしたものの、追いかけられた恐怖から立ち直っていないすみれは収まりかけていた鼓動がまた早くなるのを感じた。
「ええと・・・・、大丈夫かい、あんた。具合でも悪い?」
老人は緑のカーゴパンツに長靴、黒のTシャツといった格好だ。
暗がりで透かし見る顔は心配そうに眉が顰められている。
老人は続けて、
「こんな所にいたら危ないよ。今の時間は特にさ。あんたみたいな若い子がいちゃダメだよ」
と穏やかな声で話しかけられ、すみれは頷いた。
「すみません」
老人は戸惑ったように手を振る。
「謝ることなんてないよ。どうしてこんなところにいるのかわからんけど、早めにここを離れたほうがいいよ」
「ありがとうございます。あの、私配給のボランティアでここに来てたんですけど、さっき広場の方で男の人に絡まれて・・・」
すみれがそう告白すると老人は合点がいったように頷いた。
「ああ・・・、そうかい。無理もないな。それでその男はもういないのかい」
老人は周りをキョロキョロ見渡した。
「ええ・・たぶん」
すみれも男が立ち去ったと思われる方向を窺う。
「まだいたら危ないね。ええと、良ければだけど安全なところまで一緒に行こうか?」
すみれは迷ったが、老人の柔らかな表情と挙措を信じてみることにする。
「あの、お願いできますか?」
老人はニコッと笑った。シワが頬全体に広がる。
「いいとも。一番近い道を案内しようね。おいで」
そう言って周りを見ながら歩き出した。
「あの、ここらへんに住んでるんですか?」
「ああ、そうだよ。というよりあんたが隠れてた横のボロ屋が家で、外に誰かいるみたいなんで見てみたらあんたがいたんだよ」
すみれは納得した。
「そうだったんですね、すみません。」
「気にする事ないよ。危なかったんだもの、当然だよ」
老人の話し方は穏やかだ。
辺りを見回しながらすみれを先導する足取りはしっかりしている。
髪はボサボサで、電灯に照らされる顔は日に焼けている。
しかし時折すみれを気遣うように振り返る顔立ちは柔らかく、目元は優しげだった。
バラックの間を通り抜けたり、マンションの間の狭い路地を歩き、幾つかの角を曲がる。
老人は目立たないルートを選んでくれているらしい。
そうしてしばらく歩き、裏路地を抜けると、いきなり灯りの多い通りに行き当たった。
車も頻繁に行き交い、人も歩いているようだ。
老人はそこで振り返ると、笑顔ですみれを促した。
「さ、ここまでくれば安心だと思うよ。もう大丈夫だ」
すみれはホッとする。
「本当にありがとうございました」
「いいって。あんた配給のボランティアでここに来てくれてるんだろ、それならこっちこそお礼言わなきゃいけないじゃないか」
そう言われてすみれは思い当たる。
「でも、あの、配給って」
老人はわかってるよ、というように首を振った。
「ああ、もちろん俺には配給は当たらない。でもここの老人を助けてくれてる人に、危険な思いをさせたくないだろう?あんたが無事で良かったよ」
すみれは有り難さに深々とお辞儀をした。
今夜は怖い人に遭遇して大変だったけど、こんな温かい人に助けてもらえた。
その事で恐ろしい目に遭った事も何か報われたような
気がした。
すみれはまたお礼を言った。
「本当にありがとうございます。助かりました。あの、お名前伺っても」
「いいよ、いいよ名前なんて。じゃあね」
老人はニカっと笑って手を振ると、今出てきた路地に入っていった。




