火炎
男が建物を背にして立っている。
そこは大きなビルの前で、デザイン性の無い事務的な作りからそこが官公庁らしいと感じさせた。
男はパーカーにジーンズという格好で、サングラスに大きなマスクをつけ、誰だかわからないように顔を隠している。
ただ白髪を伸ばし放題にしているために、男が老齢であることがわかる。
男は大きなザックを背負っており、体の前にプラカードを掲げていた。
プラカードというより、厚紙なのかもしれない。
そのカードに、文字が印刷されていた。
「自分は氷河期世代の人間です。私立大学を卒業したものの、就職はなかなか決まらず、ようやく正社員で入れた会社は、厳しい環境でした。毎日のように残業し、クタクタになり、ミスをすると「クビにするぞ」「お前の代わりはいくらでもいる」などと怒鳴られ使い捨ての部品と同じ扱いでした。
ついていけない、と思って辞めました。」
しばらくそのカードを身体の前にかざす。
ゆっくりと文を読めるだけの時間が経ってから、男は次のプラカードを取り出した。
紙芝居のようにカードを入れ替えるつもりのようだ。
カードには続いてこう書いてある。
「次の正社員の口は全く見つからず、非正規雇用の仕事につくことしかできませんでした。
そこは工場で、ロボットのように働く場所でした。会話もないし、お互いの顔も見ない。誰一人として知り合うことはありませんでした。
夏はとても暑く、同僚が何人も倒れるのをよく見かけたものです。
そこはある日突然「明日から来なくていいよ」と言われ辞めさせられました。
今では考えられないような話です」
男はまたカードを変える。
「その頃には30才近くで、いくら探しても正社員で雇ってくれるところはありませんでした。
それからずっと非正規です。
どうして正社員になってないの?と何度も言われました。
私が「ならない」のでは無く「なれなかった」と伝えても、それは自分が悪いんでしょ、の一言で終わりです」
男は顔を俯かせ、カードを変える。
「正社員になれなかったのは仕事を選んでいたからでしょ?
正社員になれなかったのは真面目に探す気がなかったからでしょ?
正社員になれなかったのは死ぬ気で働こうという気が無かったからでしょ?
正社員になれなかったのは人間関係うまくやれないからでしょ?
そうやって全部自分のせいなんだと押し付けられます」
カードが変わる。
「非正規なので頻繁に職場が変わり、仕事の内容も変わるとそこには当然、自分より仕事のわかる若い正社員がいます。
そして言われます。「いい年してそんなこともできないんですか?」「自分より年上で経験もあるだろうに、何で出来ないんですか?」「もっとしっかりしてくださいよ」
人生の落伍者として見られ、そのたびに惨めな気持ちになります。
自分は人より劣っていて、使い物にならない負け犬なんだと」
「非正規で、そのうち雇い止めになる自分にじっくり基本や応用をしっかり教える所なんてありません。
仕事を転々としているから経験した業務内容は中途半端なものばかり。
従って前の仕事内容が役立つことなんてことはほぼありません。
ですがどんな仕事の場面でも、年を取っているから経験があるだろうと思われる。でも結局なんにも分からないんだという事に気づいた時の失望の表情。
そしてそれに続く、こいつは使い物にならないと判断された時の無視。
死にたくなります」
「自分の価値を示したい。けれどどんな価値もありはしない。
誰かに認めて欲しい。けれど誰にも認められることはない。
いつだって自分は、ないがしろにされる人間なんだと分からせられる時間が、ずっと続くんです。
そこに希望はありません。誰かが言ってましたけど、まさにホープレスです」
「そんな自分ですが、これまで自分の境遇に対して不満を表すなんて考えてもいませんでした。
全て自分が蒔いた種なんだと、自分が至らなかったんだと思ってましたから。
でも最近、私と同じような境遇の人が、国に抗議をしたり、世間に自分を訴えています。
それこそ命をかけて」
「その姿に、自分は心をゆさぶられました。
私も、抗議していいのだと思いました。
私だって、もっと幸せになれる権利があったはず。
人並みに暮らせる人生があったはず。
けれどあの氷河期と言われる時代に生まれたばかりに、蔑まれ、みくびられるような人間になっている」
「国は、もっと何かするべきだったはずでは無いでしょうか。
ずっと景気も暮らしも良くならず、手取りの給料も上がらす、子供が生まれる数も減っている状態を続けて、今の今まで何をしてたのですか?
私のような人間をたくさん作って、何がしたかったのですか?
私は無念でなりません。
私だけでなく、大勢の人の人生を大きく歪ませた国に、不満をぶつけたい。
私の無念を伝えたい」
「今日、私は抗議します」
そこで男は、体の前に掲げていたカードを地面に置き、背負っていたザックを下ろした。
地面にあたったザックからコン、と硬い音がする。
ザックの雨蓋を開けて中から取り出したのは、液体が詰まった瓶だった。
男はその瓶を掴むと、ビルの玄関に向かって投げつけた。
瓶の割れる音が聞こえ、炎が立ち上る。
男はまた同じ瓶をザックから取り出し、次々と投げつける。
大きな火の手が上がり、玄関の広い範囲が燃え始める。
煙が立ち上る。
遠くから叫び声が近づいてくる。
男は瓶を取り出しては投げつけた。
サイレンの音が聞こえ始める。
全ての瓶を投げ終わった男は、建物を覆う火の手を満足気に見つめ続けた。