屋上
「私はこれから飛び降ります」
どこかの屋上に、女の声が響く。
劣化が進んだ床のコンクリートはひび割れ、隙間から雑草が伸びている。
風がその雑草を揺らしていた。
ひび割れには即席の修理の跡が走っているが、錆び付いてボロボロだった。
そんな中に、老女が立っている。
言葉を発したのは彼女のようだった。
うつむき加減な顔にはシミがあちこちに出て、肌はカサカサだ。
目尻にシワが深く刻まれている。
髪はひっつめにしているが、ほつれ毛が頬で揺れている。
くたびれた灰色のセーターと黒いズボンを身につけていた。
老女がまた口を開いた。
「これまでの人生、何も良いことはありませんでした。両親は私が小学生の頃離婚。
それからは身体の弱い母が女手一つで必死に私を育ててくれた」
母という言葉が感情を揺さぶったのか、悲しみの表情が浮かんだ。
「高校だけは卒業できたけど、その頃高卒で就職なんて決まるわけがない。
だからパートで働くしかなかった」
老女の口の端が歪む。
「すぐに母は体を壊して、その面倒を見ながら働いていたから余裕なんて全然なかった。
せめて正社員になれば給料が良くなると思って必死に探したけど、高卒だと言うと話も聞いてくれない。面接では何回も馬鹿にされたし、ひどいことも言われた」
そう言うと悔しそうな表情になり、拳を握り締める。
脳裏にその日々のことが浮かんでいるのかもしれなかった。
言葉はどんどん溢れ出てくる。
「パートだから手取りは安いまま。その日を生きるので精一杯」
「母が死んでから違う職を探したけれど、高卒でろくな経験もない私ができるのは結局パート。とにかくずっと働いてきました。借金となった母の治療費を返さなければならなかったから。朝起きて夜遅くまで働いて、寝て、また起きて。休みの日は仕事の疲れを取るだけ。」
「気づいたらここに立ってます」
老女は口を閉じた。風が屋上の埃を舞い上げたのか目を細める。
「これって全部私のせいなんですか?」
その時初めて老女が正面を見据えた。
「結婚出来ないのも、落ちこぼれのように生きてるのも、余裕がないのも私が全部悪いんですか?」
顔が紅潮して言葉が震え始める。
「先のことは分からないけれど、これだけは言えます。これまでも、これからも希望はありません」
「私のような人って私だけですか?たぶんたくさんいると思います。そう思って話しかけてます」
目に、光るものが見えた。そしてポツリと呟くように
「私にはずっと希望が無かったんです」
と言って唇を震わせた。
老女は続ける。
「私を表すいい言葉があります。」
「ホープレスです。私たちは、ホープレスの世代なんです」
と言うと感情が高ぶったのを落ち着かせるように女はしばらく黙った。
そして意を決したかのように口を開く。
「運が悪かったといえばそうですけど、国はもっとできることがあったんじゃないですか?」
「私たちのような世代が見直されて支援されたのは、私が40を過ぎた頃です。そんな時になって
どうしようっていうんですか?そしてその支援だって大したものじゃなかった」
「もし、正社員になって、手取りもきちんとあってボーナスもあったなら余裕が出来て結婚も出来たかもしれない。高卒だからって就職が難しい世の中じゃなかったら、母も体を壊すまで働くことも無く長生きできたと思います」
「本当に、全部私のせいなんですか?」
もう一度、老女は問いかける。
応える者がいない屋上に問いが虚しく響く。
とうとうその目から、涙が溢れ出した。
「もう限界です。もらえる年金は少ないし、身体は満足に動かない。これ以上こんな国で生きてられません。何も変わらない、希望もない、人並みの生活もできない」
「だから私は飛び降ります」
老女の目に強い光が宿る。明確な意思のこもった言葉。
「子供、欲しかった」
最後にポツリとそう言うと、老女は振り返りフェンスの方に走り寄る。
そしてためらいもせずよじ登ると向こう側へ飛んだ。
彼女の背中が消えた。
画面が暗転した。