公共施設
大きな建物の前の道路だった。
建物の前面の壁には屋上から標語が書かれた垂れ幕が下がっている。
老人や、子連れの主婦や、サラリーマンが忙しなく出入りしている玄関が見える。
道路には駐車待ちの車が並んでいる。
どこかの役所のような感じだった。
その建物をバックに、老人男性が立っていた。
白髪で、顔色が悪い老人である。
「こんにちは。私はこれからこの役所に抗議しようと思っています。私が受けた理不尽な対応について、抗議しなければ気が収まりません」
正面を向いたその面立ちは落ち着いている。
柔和とも思える眼差しがこちらを見ていた。
「私の事を話させてください。
若い時やっと入った会社は、今では考えられない現場でした。毎日怒鳴り声が溢れ、人格を否定するだけでなく親兄弟を貶めるような言葉を受け、時には殴られさえする。
就業時間と変わらない残業がずっと続いていました。周りの人はどんどん辞めていきましたが、自分は何とか頑張ろうと思って続けた結果、心を病んでしまい、そこから自分の人生は変わってしまいました」
淡々と、老人は言葉を紡いでいく。
「会社は、辞めざるを得ませんでした。辞める際、上司が吐き捨てるように浴びせかけてきた言葉が今でも忘れられません。「つくづく使えない奴だったな、お前は」って言葉でした」
その時のことを思い出したのか老人はいったん言葉を切り、目を閉じた。
その胸元が大きく上下して息を吐くと、老人は続ける。
「辞めてから何年も引き篭りました。時々、会社や上司のことを思い出してしまうと震えや動悸が止まらず、ひどい時には吐いたりしてとても外に出れる状態では無かったんです。それでも何とか周囲の助けを借りて治療を行い、アルバイトができるようになったのは30も半ばの頃です。それでも毎日は働けず、週2.3日で働き続けました」
「それから何とか今日まで生活してきましたが、年のせいか心が弱くなったのかもしれません。最近、外がまた怖くなってきてしまいました。こういうのがぶり返すのかはわかりませんが、自分ではどうしようもないんです」
その目に悲しい色が宿る。
「だから役所に相談に行きました。でも、言われたのは「今まで働けたんだから大丈夫でしょう?」とか「今更言わなくても」「誰か親族を頼ったほうがいいと思います」などという言葉でした」
「自分だって好きでこうなったわけではないんです。若い時にあんな状況に晒されなければ普通に生活してたはず。でもそうじゃなかった。あの頃はそういう会社がたくさんあったし、どこに訴えることもできなかった。みんな同じ境遇なんだから甘えるんじゃないって世の中だったと思います」
老人は俯いて口をつぐむ。
そしてまた正面を向いて話し続けた。
「だからずっと耐えるしかなかった。結婚だって諦めて、社会で生きづらくて外に出れないのが恥ずかしくて悔しくて。
でも、もうダメなんです。外に出れないし人と関わるのが怖い。だから保護してもらいたい。
迷惑をかけているのは分かってます。こんな人間は社会にいてもしょうがない。何ら貢献できていないし、お荷物なだけ。
だけど、あと何年か静かに暮らしたい。平穏な暮らしがしたい。そんなこと思うのは甘えなんですか?自分が全て悪いし間違っていたんでしょうか」
老人が話す内容はすでに伝達を目的としたものではなく、自身の感情の羅列となっていた。
そしてそのことに気づく様子も無い。
最後の方はほとんど呟きとなっていった。
老人は急に冷静になったかのように顔を上げる。
「だけど今はもう、楽になりました。自分のやるべきことがわかったので。これからあの役所で抗議します。しっかり自分の意思を伝えたいと思います」
そう言うと、建物の方へ歩き始めた。
通りを渡って玄関を通り抜ける。
玄関ホールのそばにはATMやお手洗いへ行ける通路があるが、そこを横切り先へ行くと、カウンターが並ぶ広いロビーになっていた。
カウンターの前にはロビーチェアが整然と並んでおり、20~30人ほどの人々が順番を待っている。
アナウンスの声や、人々の会話がロビーに響き渡っている。
老人は一旦立ち止まり、振り返るとまっすぐにこちらを見つめる。
「それでは、抗議したいと思います。さようなら」
と言ってロビーに入っていった。
そのままカウンター前まで来ると、その真ん中に立ち、いきなり叫んだ。
「私は、ここに生活保護の相談を受けに来ました!
けれど、ろくに話を聞いてもらえず申請を取り下げさせるための言葉しか聞けませんでした!
迷惑をかけるのはわかってます。けれど話を聞いてもらえないのはどういうことなんですか?
生きる権利を保障するのは行政の義務だと思います。
なのにここの人はその義務を遂行しない!
だから私は抗議します!」
カウンターに座っている女性職員が何事かと思って目を剥く。
男性の職員が対応しようというのだろう、老人の方へ向かってくる。
だが老人は、懐から包丁をさっと取り出すと、いきなり自分の首に突き刺した。
あっと言う間に血が吹き出る。
老人は何度も突き刺す。
あたりから鋭い悲鳴が聞こえた。
老人は立っていられずカウンターの前に座り込み、横たわった。
血がどんどん流れロビーの床を浸していく。
役所の職員が駆けつけ、老人に何事か叫ぶ。
カウンターの職員が慌てた様子で電話を掛けている。
ロビーにいた住民らしき人々はその場から逃げたり、遠巻きにして覗き込んだりしている。
老人の顔は職員たちの背中に隠れて見えない。
しかし身体はピクリとも動かなかった。
叫び声と慌ただしい足音がロビーに響き、絶えることがなかった。




