始まり
「私はこれから腹を切る」
家具も無く、窓すら無い殺風景な部屋の真ん中に、老人があぐらをかいて座っていた。
70代くらいの男だった。
シミの目立つ顔は日に焼け、薄汚れている。
一文字に引かれた口元は無精ひげに覆われていた。
くたびれた顔の中で唯一、目だけはしっかりと正面を向いている。
老人が口を開いた。
「今、この国で起こっている事。それは不幸な人がどんどん増えているという事だ」
そう言うと沈黙した。
自分が発した言葉の影響を確かめるように見えた。
しばらくして、語りかけるように続ける。
「税も物価も毎年上がって生活は苦しくなるだけ。働いても働いても、手取りは上がらないし政府が立てる政策は抜本的だ、異次元だなどど謳っているが生活は一度でも楽になっただろうか?」
そこでまた黙った。
「なったためしがない」
老人の眼光が鋭くなる。
「一体政治家や役人は何をやっている?」
「彼らが作る政策や法律が、不幸な人を増やしているようにしか思えない。消費税は20%になった。今や医療費の自己負担は私の若い頃より高い。年金だって減っていく。それでも私たちは、身を切るような辛さを耐えたら未来が良くなると思って今日まで来た」
老人は一旦口を閉じる。唇が憤りで歪んでいた。
冷静に言葉を紡ごうとしていたが、話していくうちに悔しさや苦しみが溢れ出るのを抑えきれなくなっていた。
見開いた目が潤んでいる。
続けて老人ははっきりと言い切った。
「だが結果は辛くなっただけだ」
「こんなにも長い間、大勢の人々をを苦しめるようなことばかりしている政治家や役人達は、どうして恥じることなく外を歩けるのか、生きていられるのか、私は不思議でしょうがない」
「日本人は」
老人は強調するかのように言葉を節々で切る。これが癖のようだった。
「非常に忍耐強くて勤勉で、従順な人々だ。だから政治家や役人はずっとそれに甘えてきた」
「そろそろ」
「私たちは糾弾すべきじゃないだろうか。彼らの無能に。抗議すべきじゃないだろうか、彼らの無力に」
そこまで言うと、自らの興奮を収めるように黙った。
肩が上下している。
「私は」
皺の寄った喉仏が上下する。
「氷河期世代と言われる人間だ。その中で必死に働いて生きてきた。でも結局、妻もできず子供も作れず、家も持てなかった。運が悪かったのかどうかはわからないが、朝から晩まで働いてそんな人生しか送れないなんて、これは本当に自分のせいなのか?」
老人の口調がまた上ずってくる。
「私はそうは思わない」
「私が受け取るべき幸せが、国のためだとかいって奪い取られ、いいように使われたせいだと思っている。不幸は受け取るしかないが、不公平は許せない」
声が震えを帯びて、叫びのように聞こえる。
「もう一度言う。国がやっていることは、不幸な人を増やすばかりだ。そしてこれから先も絶対にそれは続く」
老人の言葉が次から次へと迸る。長い間積もっていた感情が露出していた。
「だから、抗議しないとずっとそのままだ。私達は抵抗の意思を持つべきなんだ。このままでいいのか?」
「いいわけがない」
老人は熱のこもった目で正面を見据える。
そして確信に満ちた口調で言う。
「私は今日、抗議する。私の抵抗の意思を多くの人に知ってもらいたい。そしてできるだけ多くの人に立ち上がって欲しい。抗議の声を上げて、政府を正さなくてはならない。選挙のような、あんな上級民の就職活動に付き合って何十年も損をするより、絶対に抵抗すべきだ。」
老人は一気に言葉をぶつけると、目を閉じた。
10秒ほど時が過ぎ、老人は目を見開く。
「だから今日、私は腹を切って抗議する」
「私の意思を知ってできるだけ多くの人が抵抗してくれるのを祈る」
老人はそう言うと、いつの間にか持っていた包丁を振りかざし、ためらいもみせず腹に突き刺した。
瞬く間に血が滲む。
それでも数回激しく突き立てる。
ひたむきにさえ見える動作。
苦痛に顔を歪める老人の全身が震えると、前方へ頭が投げ出された。
血が床に流れ、その手がこちらに向かって伸ばされる。
そして画面が暗転した。