7 花に罪はありませんから
ドロシー嬢のお父様、マーシャル卿は黒のスーツを着こなし、お洒落なカフスボタンをする紳士だった。
だが、眼光の鋭さは商人といった印象。マーシャル卿は慰謝料の金額と期日を確認すると、納得してくれた。
閣下とマーシャル卿が話を進め、書類にサインしている傍ら、同席していたドロシー嬢は何も言わない。うつむいて黙っているだけだ。その顔は浮気男を成敗した!というものではなかった。
「リア。ミスター・マーシャルと話をしたいから席をはずしてくれないかな」
「わかりました。ドロシー様、わたしとお話をしませんか?」
閣下に言われて、わたしはドロシー嬢に話しかけた。
ドロシー嬢はこくりと頷くと、庭が見えるテラス席に案内してくれた。
小さな庭には、花が咲き誇っている。遠くから見ると、大地に虹がかかっているようなグラデーションの花壇があった。
「美しい庭ですね」
「ありがとうございます……」
「今回の結果、ご納得いただけなかったでしょうか?」
「えっ……そ、そんなことはありません……慰謝料もあんなに」
「当然の権利ですよ」
スッパリ言ってみたものの、ドロシー嬢はあいまいに微笑んでいるだけだ。憂いは晴れていない。その横顔は、どこか昔の自分に似ていた。
――終わったことなのに、まだ苦しい。
割り切れない感情がそこにある気がして、自分を慰めるように過去を話した。
「ドロシー様。わたし、昔、婚約を解消されたことがあるのです」
「えっ……」
「解消というより破棄、ですね……」
思い出したくもない光景が脳裏をかすめる。一年も経ったのに、口にするのは想像以上に気が重たい。
「……それで、今のお仕事を?」
ドロシー様が顔をあげて話しかけてくる。わたしは頷く。
「紹介を受けて」
「そうでしたのね……ご立派です」
「必死だっただけです」
へらっと笑うと、ドロシー嬢はうつむいてしまった。
しばらくの間、無言の時間が過ぎてゆく。それが終わると、ドロシー嬢はぽつり、ぽつりと話してくれた。
目の前の花壇は、マーカス領にある花畑を模倣したもの。花畑は丘の上にできていて、広く、虹の上を歩いているような気分になれるそうだ。
「デイビット様から話を伺って、いつか花畑を見に行きたいと思っていました」
寂しそうにドロシー嬢は話を続ける。
「あの方の心は、私からとっくに離れていましたのに……縁が切れても、花が抜けないのです」
そう言って、ドロシー嬢は花畑を見つめた。彼女は何を見ているのだろう。あったらいいなと思っていた未来の残り火だろうか。ドロシー嬢の気持ちが、わたしには痛いほどわかってしまった。
「庭はこのままでいいと思います」
「え?」
「花に罪はありませんし」
微笑みながら言うと、ドロシー嬢は目を見張った。そして、気持ちを吐き出すようにわたしに尋ねてくる。
「あの……ミス・ウォーカーは、その、婚約を解消されて苦しく、なかったですか……?」
「死にたいくらい苦しかったです」
ひゅっ、とドロシーさまが息を吸い込む。わたしは右肩をさすりながら、淡々と話した。
「婚約者が他の女性に心を移らせていて、一方的に悪者にされました」
「私と一緒……」
わたしが一緒と聞いて、ドロシー様は思うことがあったのか。心のうちを話してくれた。
「デイビット様がシャロン様を思っていても、私は見ないふりをしました……婚約者がいなくなるというのが恐ろしかったのです……」
ドロシー嬢が鼻をすんと鳴らす。
「周りの友人には、婚約者がいました……その輪から外れたくなくて……外れたら、わたしはひとりぼっちじゃないかって思ってしまって……」
いつの間にか、ドロシー嬢の瞳から涙がこぼれていた。
「……デイビット様を好きだったから、悲しいんじゃないんですっ……私だけ婚約者がいなくなるのが怖くて……」
「それは、ごくごく当たり前の感情では?」
「えっ?」
何でもないことのように肯定すると、ドロシー嬢はきょとんとした顔になる。わたしは微笑んで、花畑を見つめた。
「両親が決めた人と結婚する。そう教えられてきたら、それ以外の生き方をするのは難しいです。わたしが、そうでした」
わたしは肩をさするのをやめた。
「忘れたいことを相手にされました。いまだに忘れられません。それでも、過去にはできますので」
「過去には……ですか?」
「はい。今じゃなければ、辛くないかなって」
「今じゃなければ……」
ドロシー嬢がつぶやいたとき、空から雨が降ってきた。虹のような花壇が雨露に濡れる。それでも、花は美しい。
「雨の庭もキレイですね」
そう言うと、ドロシー嬢がこくりと頷く。
「そうですね……このままにしておきたいです」
「それがよろしいかと」
「ミス・ウォーカー」
ドロシー嬢がわたしに呼びかけた。彼女の瞳は涙に濡れていたけど、表情は曇っていない。
「あなたと話せてよかった。デイビット様のことは、過去にしようと思います」
わたしは頷いて、ドロシー嬢に敬礼をした。
***
ドロシー嬢の邸宅を出たとき、雨は強くなっていた。閣下と共に急いで保安事務局に戻る。
「閣下。わたしを小脇に抱えようとしないでください。水たまりを踏んで、更に濡れます」
「そうだね。じゃあ、乗り合い馬車でも捕まえるか」
びしょ濡れになりながら、乗り合い馬車の停留所にたどり着く。
「ミスター・マーシャルにマーカス領を買わないって、話をしてみたよ」
「皇族領の売却ですか?」
「皇族領も管理人が必要だしね。それにミスター・マーシャルは帳簿を正確に書く人だ。正しく経営してくれるって期待されているんだよ」
「そうですか」
「ま、すぐに返事はもらえなかったけど、あれは買うな」
「なぜですか?」
「商人は利益が見込める話を逃さない」
「そうですか」
マーシャル卿がマーカス領を経営するのなら、ドロシー嬢は虹の花畑を見られるかもしれない。
彼女が笑顔で虹の上を歩く姿を想像する。うん。いい未来だ。
「マーカス領がいい経営者に恵まれるとよいですね」
「そうだね」
水たまりを踏みながら、人をたくさん乗せた馬車がやってきた。