「「「いただきます」」」~カトリーヌ・カレの幸福③
カン! カン! カン!
鉄がぶつかり合う音がして、わたしは飛び起きた。
目を開くと、ゾエさんがフライパンとこん棒を持って仁王立ちしていた。
「早く起きておくれ。キッチンの掃除をするよっ」
ゾエさんはそっけなく言い、わたしは慌てて起き上がった。
それからわたしたちは掃除を教わった。
黒く四角い塊に見えるオーブンは、火室に冷めた灰がたまっていた。
棒でかきだし、煙道に詰まった煤も取り除く。
新しい石炭を石炭庫から持ってきて、ゾエさんに渡した。
朝食づくりが終わって、食器を洗う。それが終わったら、中庭の掃除だ。
裏門を出ると、専用の中庭に出る。雑草を抜くように言われたが、もったいないと思った。
ナズナは他の花と添えると銅貨一枚で売れるのに。
だけどなにか言える立場でもない。
せっせと雑草を抜いて、顔をあげると隣の家の方と目が合った。
紺色のワンピースにメイドキャップを付けた若い女の人だ。
不審そうな目で見られ、わたしは慌てて立ち上がって、ぺこぺこ、お辞儀をした。
「あ、あのっ……侍女として働いています……」
その人は目を泳がせて苦笑いをこぼした。
「そうなの。私は住み込みで働いているメイドよ。これから、よろしくね」
そう言って、女の人は中庭の先にある料理場へ行ってしまった。
その後ろ姿を見ながら、ふと自分の着ているものに視線を落とす。
お母さんと一緒に作ったワンピースは汚れていて、黒ずんでいた。
手を見ても泥だらけだ。
あの女の人のようにきれいな服ではない。靴も履いていない。
急に自分が、みすぼらしく感じた。
わたし、場違いなところにいるんじゃ……?
「……でも、食べるためだし……」
そう。食べるためには、働かなくちゃいけない。
割り切って、わたしは無心で雑草抜きをしていた。
終わって、台所に戻ると、ノアムとローイはいなかった。
買い物に行っているそうだ。
「お嬢様があんたを部屋に呼ぶようにだって。その格好じゃ、部屋を汚すから、こっちの服に着替えな」
ゾエさんが渡してきたのは、紺色のワンピースと靴下、そして白いメイドキャップ。
着てみると、ワンピースはサイズが大きくて、ぶかぶかだった。
だれど、あの女の人になれたみたい。
ほぅと自分の服に見とれていると、ゾエさんが声を出した。
「着替えたらさっさと行きな。お嬢様は三階にいるよ」
「は、はいっ」
わたしは階段を上り、はじめて一階に足を踏み入れた。
「ええっと……」
渡り廊下をびくびくしながら歩いていると、紺色のワンピースを着た女の人がいた。
知らない人だったが、手には掃除道具を持っている。
「あ、あのっ……リリアンお嬢様はどちらに……」
女の人は無表情でわたしを手招きした。そして、階段のある場所を教えてくれる。
「ありがとうございます……」
ほっと胸をなでおろし、女の人に言ったけれど、無視されてしまった。
わたしは階段を上り、三階へ。
ふたつの扉がある。
手前の部屋をノックすると、「誰よぉ!」と苛立った声が聞こえた。
乱暴に扉が開き、ぎょろりとした目の女性がわたしを見る。
ひっと声を出して青ざめ後ろに下がる。
「す、すみませんっ!」
頭を下げていると、「あら、やだわ」と鈴を転がすような声がした。
おそるおそる顔を上げると、リリアンお嬢様がいる。
お嬢様は女の人を見ると、うっとりとした笑顔になった。
「お母様、この子はわたくしが拾ってきたの。心配しないで、部屋に入っていてくださいな」
お嬢様が苛立った女の人をなだめる。
お母様――ということは、奥様なのだろうか?
こぼれんばかりに目を開き、奥様は爪を噛んでいる。
ぶつぶつと何かを言いながら、お嬢様になだめられて、部屋へと戻っていった。
扉を閉めたお嬢様は、笑顔でわたしに言う。
「お母様を部屋から出したらダメじゃない」
「……すみま、せん……」
「まあ、いいわ。こちらへ」
お嬢様に言われ、部屋に行く。
お嬢様の部屋は夢のようにすてきな部屋だった。
ピンク色の模様があしらわれた壁紙。家具は鏡のように磨かれていて、ぴかぴかだった。
「あなた、文字は書けて?」
「……少しは」
「そう。なら、きれいに書けるようになりなさい」
お嬢様は机の引き出しから、ペンとインク壺、羊皮紙を持って来た。一枚の紙を出しだすと、羊皮紙にまったく同じ文字を書き写せるようになりなさいと言った。
文字を書くのはへただったが、読むことはできる。
紙に書かれてあったのは、お嬢様へプレゼントを贈る手紙のようだった。
宛名がリリアンお嬢様。差出人がセリアとなっている。
「あ、あの……これを書くのですか……」
こわごわと尋ねると、お嬢様は美しくほほ笑んだ。
「きれいに書けたら、銀貨を一枚、あげるわ」
「え……?」
お嬢様は悪魔のようにささやく。
「お金、欲しいでしょ?」
わたしは何度もうなずきながら、「一生けん命、書きます!」と言った。
それからわたしはゾエさんの手伝いの隙間に文字を書くことを練習した。
この手紙はなんだろう?と疑問に思った。
セリアというのは誰なのだろう――とも。
でもそれを尋ねたら、ここを追い出されてしまうかもしれない。
余計なことは口にしない方がいい。
屋根のない家に戻るのは嫌だった。
わたしは紙を使うのはもったいなくて、中庭の隅で木の棒を使って、何度も同じ文字を地面に書いた。
ゾエさんは毎日、パンとスープをわたしたちにくれた。
ジャガイモの皮をむいていたローイがゾエさんに「ジャガイモのパンケーキが食べたい」と言ったこともあった。
ゾエさんは顔をしかめながら「そんもん食べたいのかい?」と言った。
やれやれと言いながら、ジャガイモのパンケーキを作ってくれた。
すりおろしたジャガイモに小麦粉を入れて、塩で薄味を付けるものだ。
パンケーキみたいに平たくして焼く。
「わああっ。じゃがいものパンケーキだあ!」
「うまそう!」
「作り方は今、見ただろ? 次は自分たちで勝手に作りな」
「……作ってもいいんですか?」
わたしが尋ねると、ゾエさんが嘆息した。
「ジャガイモと小麦粉だろ? たいした材料じゃないから、作っていいよ」
お許しがでて、わたしは嬉しくて目を開いた。
「ありがとうございます!」
「おおげさだねえ」
ゾエさんが作ってくれたじゃがいものパンケーキはもちもちだった。
「うっめえ!」
「おいひいねえ」
「おいしいっっ」
「はんっ、おおげさだねえ」
四人で食べたじゃがいものパンケーキは忘れられない味だった。
そんな日々を過ごす中、金曜日になった。
金曜日は洗濯をする日だ。
朝から日雇いのランドリーメイドと呼ばれる人が三人来て、一緒に働いた。
洗濯は一日がかりの大仕事だ。
大釜の中にラベンダーの香りがする石鹸を入れ、つけ置きした後に、洗濯ものを熱湯で煮立たせて、木の棒でかき混ぜながら汚れを落とす。水が汚れたら、別の水ですすぐ。それを何度も繰り返した。
熱気がこもる石造りの中で、わたしは汗を垂らしながら、棒をかきまぜた。
あくせくと働きながら、ようやくわたしは自分でもきれいと思える文字が書けた。
紙に文字を書いてお嬢様の部屋を尋ねる。
ドアをノックすると、お嬢様が出てきた。
お嬢様はわたしの文字を見てから、にっこりとほほ笑まれる。
「まあ、いいわ。ご苦労様」
いたわりの言葉をくださり、わたしに一枚の銀貨をくださった。
わたしはピカピカの銀貨を眺めて、大事に両手の中にしまう。
「用は終わったわ。さっさと出て行って」
「――え?」
顔を上げると、お嬢様は顔から笑みを消していた。
「聞こえなかったの? 用済みだから出て行ってって言ったのよ」
「え……あのっ……仕事をしたんじゃ……ないのですか?」
訳が分からなくて、震えながらお嬢様に尋ねる。
お嬢様はきっと眉を吊り上げて、腕組みをした。
「しつこいわね。あなた、匂うのよ。わたくしの視界から消えて」
そう言われ、お嬢様は部屋の扉を閉めた。
雷に打たれたような衝撃を受けたまま、わたしは呆然と立ち尽くした。