19 あなたのしたことは結婚詐欺ですよ
ぱらっ、と木くずを落としながら、閣下は鋼の拳を壁から引き抜いた。
ブリュノ殿下は目を引いたまま、生唾を飲み干していた。
閣下を見ると、ふっと口の端を上げて極上の笑みを浮かべていた。美しくて、残忍さが滲んだ笑みだ。
「あなたはサイユ王の沙汰があるまで拘禁されているはずですが、どうやら、ご自身の立場が分かっていないようですね?」
「なんの話だ……」
閣下は胸ポケットからわたしの名前が入ったメッセージカードを取り出した。
「これを覚えていますか? あなたがセリア・フォン・ポンサールを殺人未遂罪で処断した時、このカードを証拠としましたね?」
「そ、れが……どうした……と」
「このカードに使われているのは、羊皮紙です。ですが、セリア嬢はあなたの婚約者となってから、コットン100%の手漉きの紙を使っています。国花を散らした厚手のもので、さらっとした触り心地です。紙はポンサール領にある五百年前から続く工房で作られたものですね」
閣下の言葉に、そうだったと思い出した。
わたしは領地の紙が好きだったのだ。
工房を見学させてもらった時、職人の丁寧な仕事ぶりに感激したものだ。婚約が決まった時、職人にお願いして、国花である紫色のアイリスを散らした紙を作ってもらった。
わたしはその紙を愛用し、手紙を書く時は、毎回、使っていた。ゆくゆくは王子妃になるから。わたしなりの覚悟を紙に込めた。
――ブリュノ殿下に送る手紙には、同じ紙を使った。はじめて書いた時は、何度も書き損じてしまいドキドキしながら渡したものだ。返事はなかったけど。
「セリア嬢は誠実な方で、王子妃教育費から使ったものは全て本人が帳簿をつけています。過去、7年間に渡って帳簿を見ても、羊皮紙の購入は見当たりませんでした」
「……それがなんだと言うのだ……たかが、紙、だろう……」
じりじりと後ろに下がるブリュノ殿下に、閣下も足を進める。
「たかが、紙……ね。その言葉、ひとつだけで、あなたがセリア嬢をいかに蔑ろにしてきたか分かる」
「……何が言いたい」
「メッセージカードの文字もセリア嬢の文字とは似ても似つかないですね。このメッセージカードの文字は震えていて、緊張感が伝わってきます。セリア嬢の筆跡の特徴である【a】の跳ね上がり方も、違う。保安隊の筆跡鑑定師の話では、別人、だという話でした」
「……それだけでは、証拠にならんだろう……」
「セリア嬢がやったという証拠にもなりません。わかりませんか? このカードだけでは、セリア嬢を罪人にするには不十分です」
ぐっとブリュノ殿下が喉を鳴らす。
「それよりも俺が不明なのが、なぜ、あなたが紙も筆跡も違うことに気づかなかったのか、という点です。紙の材質は違いますし、触ればおかしいと思うはずですよね?」
閣下が大股でブリュノ殿下に近づく。
「七年間、婚約者だったあなたが、なぜ、気づかなかったのですか? あなたは何度も、セリア嬢から手紙を受け取っていますよね?」
ブリュノ殿下が目を泳がせながら、無言になる。
閣下が歩みをぴたっと止めた。
「――答えろ、クズ野郎‼」
そして、怒号を飛ばしながら、ずかずかと遠慮なくブリュノ殿下に近づいていく。ひっと声をあげ蒼白し、ブリュノ殿下は後ずさっていく。
「セリア嬢とあなたの婚約時代の話を関係者に聞いたが、どうも様子がおかしい。教会への視察をした際は、すべてセリア嬢が報告書を作っている。改善案は、あなたが提案したように見えるのは、なぜだ?」
「それは……セリアが……手伝うからといったからで……」
「へえ……つまり、セリア嬢の時間をかけて作成したものを、あなたは横からかっさらった――というわけか」
「ちがっ……!」
視察は、父が提案したものだった。
教会は信者から寄付金を募っていたが、その土地の領主と癒着して不正に寄付金を巻き上げるということもあった。教会には孤児院や施療院も併設させていたから、医療や支援が行き届いているか、見て回っていたのだ。
王太子殿下夫妻はお忙しいから、細かい領地の見回りをブリュノ殿下と共にお願いされていた。
ブリュノ殿下は子供が好きではなく、不潔な場所に行きたがらなかった。一緒に行ったのは一回きりで、あとはわたしが視察して、報告書をまとめてブリュノ殿下に提出していた。
おかしなところがある場合は、ブリュノ殿下に報告していた。そして、不正がありそうな場合は、会計監査員を教会に派遣することになっていた。
それは、任させれた公務なので、しなくてはいけないことだと思っていた。
――でも、そうか。
わたしだけがする公務ではなかったんだ。
わたしだけが方々を回り、資料をかき集め、眠い目をこすりながら報告書を作る必要はなかったんだ。
閣下の言葉を聞いていると、目が覚めていくような不思議な心地に包まれていた。
「セリア嬢は婚約者としてあなたを支えていた。なぜ、切り捨てられた。なぜ、誠実さに欠いた行為をした」
「誠実など……俺たちの婚約は王命で……」
「親が決めたから、自分の意志ではないから、とか言うんじゃねえぞ。それは言い訳にすらならない」
「っ……」
「セリア嬢は心のない人形でも、あなたの都合よく動く手足でもない――婚約者のために誠実であろうと努力していた18歳の女性だ」
閣下が一気にブリュノ殿下と距離をつめた。
ブリュノ殿下は足をもつらせながら、後ろに下がる。
転がるように逃げ、廊下の曲がり角の壁に追いつめられる。
ブリュノ殿下の顔めがけて、閣下は左手の拳を振り上げた。
「ブリュノ・フォン・サイユ! 貴殿が罪の自覚もなく、今までのうのうと生きてこられたのは、サイユ王国だったからだ! 帝国に居たら俺がとっくの昔に、刑務所に送っている‼」
――バキッ!
ブリュノ殿下の顔面すれすれの壁に、閣下の拳がめり込む。ブリュノ殿下は壁に背中をつけたまま、ずるずると腰を落とした。
「あなたはセリア嬢の献身を搾取した。そして彼女が積み上げたものを全て奪い、一方的に婚約破棄をした。脅迫罪、強要罪、侮辱罪……複数の罪に該当する行為ですよ」
「……そんなことは……」
「婚約破棄後に、あなたはすぐに成婚されているんですよね? セリア嬢と結婚する気があったのかも疑わしい。リリアン男爵令嬢と出会ってから、あなたは彼女と逢瀬を重ねていたんでしょう? セリア嬢という婚約者がいるのにもかかわらず」
「っ……」
「おふたりはそれはそれは幸せそうに成婚されたそうですね。あなたが婚約者がありながら、他の女性と親密な関係だったことは、自らが証明している」
尻を床につけたブリュノ殿下を追いかけるように、閣下が腰を曲げる。閣下の口元には冷笑が浮かんでいた。
「あなたのしたことは結婚詐欺ですよ」
閣下は壁から拳を抜き、ブリュノ殿下を見下ろした。
「人の善意につけ込んだ詐欺行為は、許されるべきではない。サイユ王の処断を待つことだな。――君」
「は、はい!」
閣下が合図すると、今までポカーンとしていた近衛が慌てて近づく。
「部屋から出すな。拘禁しといて」
「は、はいっ!」
近衛は放心したブリュノ殿下を連れていった。